だれでもいろいろな友人がいるだろうが、何でも言い合える仲といえば多分、昔からの友人となる。社会人になる前からの、それも大学より高校、高校より小中学校からの付き合い、という。いいところも悪いところもお互い隠しようがないから…。
詩人・評論家、吉本隆明氏に関する記事が新聞紙面から消えない。前にも書いたように記者たちとの付き合いも大事にしたことが紙面の扱いに出ているのではないだろうか。細部というか枝葉のことがすぐ気になる編集者としては、梅原猛氏など一部の人が触れていたことに興味を引かれる。他人、特に権威に対する批判は手加減しなかった一方、お子さん思いは普通の人以上だったという吉本氏の一面にだ。
しかし無論、記事の大半は、氏の業績の偉大さを認めるものだった。10日の朝日新聞朝刊文化面に載っていた「吉本隆明さんの贈り物」という吉村千影記者のコラムの書き出しが面白い。「朝日新聞らしい人、と言われないように気をつけて」と初めて吉本氏に取材したとき言われたというのだ。これは相当に厳しい助言、あるいは皮肉のように見える。「朝日新聞らしい人」という言葉は、マイナスのイメージを吉本氏が込めて言っているとしか思えないからだ。しかし、ありがたい助言だったと吉村記者は受け止めている。
各紙の報道で気づいたことをもう一つ。福島第一原発事故の後、脱原発の考え方を吉本氏が強く批判した事実について、いくつかの新聞が簡単に触れていただけだったことだ。「その批判、見方については承服し難い」。そんな記事があってもおかしくないのでは、と首をひねっていたのだが、やはり手厳しく批判しているジャーナリストはいた。元毎日新聞編集委員室長・学芸部長の田中良太氏である。編集者にとっては、かつてマージャンの好敵手でもあった。受信しているメルマガ「大気圏外」の4月13日付記事「吉本隆明のおぞましい『絶筆』」で、「とんでもない発言」と断じていた。
田中氏が批判しているのは、吉本氏が昨年11月18日発行の雑誌「「撃論」第3号に掲載されたインタビュー記事の中で明らかにしている主張だ。
「技術的な観点からいいますと、原発は、人類がエネルギー問題を解決するために考えて発達させてきた科学的な成果、問題解決の仕方の一つ。それをいきなり元に返せという考え方は、人間の進歩性、学問の進歩の否定になります」
「飛行機や車の事故が起きるたびに改善して、それで技術が進歩していく。原発の事故もそれと同列の問題だ。例えばおできができて化膿してしまった。そこで、抗生物質を飲んで治した。治りきらない部分はより強烈な最新の薬を試した。そこからさらによい薬をつくるヒントにつながった。こうしたことと同じくらいに考えていればいいんじゃないでしょうか」
こうした発言を紹介した上で、吉本氏に対し容赦ない批判を展開しているのだが、その中にこんな指摘もある。
「論壇の大物に『論争』を挑み、自分自身の存在感を大きくするのが、若い吉本の論壇処世術だった。誰彼(だれかれ)構わず噛(か)みつくイヌが、地域社会で『恐ろしい』と注目されるのと同じことだった。吉本は若くして、論壇の『大物』の地位を獲得できた。…『大思想家』の名を手中にした1980年代には、『思想は消え、サブカルチャーばかり』といわれる状況を肯定、驚くほど多量の執筆活動を展開した。『執筆」だけでなく、インタビュー、対談など出版資本の『企画』にも積極的に応じた。バブルの時代にふさわしく、出版界もまたバブル志向だった。吉本はバブル的な文章を書き、出版社にサービスした。そのサービス精神こそが、吉本を『人気執筆者』に成長させた」
この本もその範疇(はんちゅう)に入れられるのかどうか分からないが、編集者にとっては面白いと思った本がある。「戦争と平和」(文芸社、2004年)だ。なぜ面白いと感じたかといえば、吉本氏と旧東京府立化学工業学校(その後、都立工業高等学校となり2001年閉校)で同級生だった川端要壽という文筆家が事実上、つくったような本だからだろう。
表題のような吉本氏の講演2つを再録した後についている川端氏が書いた「吉本隆明の日常」が、吉本氏の人となりをつまびらかにして、読ませる。「“親馬鹿“という言葉がある。…吉本隆明という友人は、まさに典型的な男である」というのが出だしだ。フムフムとうなずくようなエピソードがいくつも出てくる。「年長者に対する敬意はないのか」と思うほど批判精神が旺盛なのに、自身の娘や奥方には滅法優しいらしい。編集者の後輩などにもそんな人物がいた。しかし、「身勝手でけしからん」と切り捨てるわけにはいかないのだろう。吉本氏のような著名人でも似たような面がある、と知れば…。
「吉本隆明の日常」の中でより面白いのは、自分を軽く見たと感じた人間に対し、しばしば氏がつむじを曲げることがあった、というエピソードである。吉本氏が有名な「言語にとって美とは何か」を、自身が創刊した雑誌「試行」に連載していた時期の話だ。川端氏が自身の著書「堕ちよ!さらば」の中で、「『試行』でケツを拭いた」とフィクション(冗談)を書いたことに対して、吉本氏が真剣に怒ったことを、紹介している。
さらに興味深い府立化学工業学校時代のエピソードがある。ある日のクラス会で教壇に立ちはだかった吉本氏が言った、という。
「おれは絶対に出世するぞ。大臣にならなくとも、おれは絶対偉くなる」
こんなことを書けるのも、工業学校(今の中学校)からの友人だった川端氏だからだろう。