レビュー

編集だよりー 2008年4月12日編集だより

2008.04.12

小岩井忠道

 勝手な思いこみかもしれないが、こどものころ、美人というと目が大きい女性が優勢だったような気がする。テレビが出回る以前は、なんと言っても映画の影響力が大きい。当時、観た映画といえば東映時代劇や、授業の一環として先生に連れて行かれた文部省推薦映画に偏っていたから、すぐに思い浮かぶ女優は限られている。

 編集者と同年齢で言うと、松島トモ子、鰐淵晴子、ちょっと上だと浅丘ルリ子。彼女たちは、そろってこうした目パッチリ型だ。「緑はるかに」(1955年)でデビューした浅丘ルリ子など、「こんなきれいな少女がいるものか」とすっかり感心した記憶がある。鰐淵晴子は、当時からよく知られていたように母親は西洋人だし、浅丘ルリ子と松島トコ子はいずれも満州の生まれだ。彼女たちは、日本人離れしたような雰囲気で得をしていた、ということもあるのだろうか。

 さて、「だれだれは美人だ」というようなことを当時、祖母がよく言っていたのを思い出す。「○○さんの奥さんはちょっと斜視だけど美人だ」などと。ところが、子供心に違和感があった。祖母が美人と褒める人たちは、浅丘ルリ子や鰐淵晴子、松島トコ子といった女優とちょっと感じが違うのだ。その後、はっきりなるほどと合点したのは、こちらもだいぶいい年齢になり中国の名作映画が次々に登場するようになってからである。これら中国映画のヒロインたちが、一様に昔、祖母が「美人だ」と評した女性たちを思わせる顔立ちをしているように見えたからだ。

 祖母は典型的な農村出身の女性だが、祖父の仕事の関係で上海暮らしを10年以上経験している。大陸の女性を観る機会も多かった結果、“美人観”というのがちょっと違っていたのだろうか。いや、そうではなく、元々日本人の好みなど基本的には変わっていないということなのだろうか。

 光州事件(1980年)を取り上げた韓国映画「光州5・18」の試写を、日本記者クラブで観た。

 どうしても、チベットで起きている事態と重ねてしまう。光州事件についてはこれまでほとんど知識がなかったこともある。わずか20数年前、すぐ隣の国で大勢の市民が武器を持って自国の軍隊と交戦するような事態が起きていた事実に圧倒されるような作品だった。背景にこの地域に対する底深い蔑視観「全羅道差別」というのがあり、それが百済の時代までさかのぼる(「光州事件で読む現代韓国」=真鍋祐子著、平凡社)と知って、ぼう然とする。

 この映画の衝撃は、演じている俳優たちが、そろって日本でもよく見かけるような容貌だったことにもあるような気がした。主人公の友人のタクシー運転手など、そっくりの日本人タレントが確かいたはずだ。だれだったか、映画を観ている間中、気になって仕方がなかった。

 この作品を見た収穫の一つは、韓国人と日本人はほとんど源をたどれば皆同じ、とあらためて思ったことだ。韓国の話を日本とは無縁の国の話、と割り切るのはむずかしい。そういえば、ヒロインも、祖母の言う「美人」の範疇にピタリ納まる顔立ちだった。

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