大みそか、娘一家宅で紅白歌合戦を見ていたらテレビの音がえらく小さい。フーム、最近は歌より演出、衣装などを楽しんでいるのか。どっちにしろ知らない歌手と歌ばかりだし…。漫然と眺めているうち、これまた知らなかった男性歌手が、中島みゆきのデビュー曲「時代」を歌い出した。これなら昔よく聴いたし、1、2度歌ったこともある。
「これ音大きくしてよ」。娘がリモコンを渡してくれたので音量を上げたら、「大きすぎる」と笑いながら元に戻されてしまった。小さいと思っていた音量が、何と皆には普通なのだと気付く。片方の耳は20年近く前に突発性難聴にかかって全く用をなさなくなっている。睡眠不足も気にせず連日、飲み歩いていた報いだから、致し方ない。近年、大いに不便を感じているのは、残るもう片方の聴力がとみに低下していることだ。しかし、事態は思っていたより、相当深刻ということだろう。
正月になって、いくつかの新聞で山中伸弥京都大学教授にインタビューした記事を目にする。短い任期の研究スタッフを大勢抱えることに伴う悩みなども明らかにする一方、「恐らく1、2年でiPS細胞を使った臨床実験が始まる」。自身および自身を取り巻く研究の現状と、これからの見通しや目標について相変わらず明快な発信が多い。
iPS細胞による再生医療研究分野で世界をけん引している、と山中教授が真っ先に挙げていたのが、高橋政代・理化学研究所神戸研究所網膜再生医療研究チームリーダーが率いる加齢黄斑変性症の治療法開発を目指すプロジェクトだった。臨床研究を来年度に申請、2013年度から臨床研究を目指しているという。
日本学術会議 臨床医学委員会 感覚器分科会が2008年に公表した「感覚器医学ロードマップ 改訂第二版 感覚器障害の克服と支援を目指す10 年間」という報告書がある。視覚、聴覚に代表される感覚器医療の分野で、限りある研究費や医療費が効率よく使われることを求めてまとめられたものだ。
視覚、聴覚を完全に失っている人たちを含め、感覚器の疾患に悩む人の数は多いし、急速な高齢社会の到来につれその数は年々増えるのも間違いない。一方で、情報通信技術(ICT)の急速な進歩・普及により、人間の能力に占める感覚機能の重要さはますます大きくなっている。視覚、聴覚に支障がある人たちにとっては、社会生活を送る上でのハンディキャップが年々、大きくなる一方ということだろう。
前述の報告書によると、先天的に難聴の子供が毎年約1,000人生まれているのをはじめ、途中で聴覚障害になる人を含めると障害者手帳を持つ中・高度難聴者の数は日本全国で約36万人。これは統計ではっきりしている数字であって、実態は聴力が衰えた高齢者や「話すのにやや不便を感じる」というレベルまで含めると、聴力に悩む人は全国で約500-600万人に上るという。ちなみに編集者のように突発性難聴で治療を受ける人間は、毎年約35,000人いるそうだ。
「感覚器医療の経済的影響と費用対効果費は他の医療に対して極めて大きい」という報告書の記述がある。これではピンとこないが、視覚や聴覚に疾患を抱える人たちを減らすことによって、どれだけ社会全体に利益があるか、を言っていると考えれば分かりやすい。世界保健機関(WHO)によると、全ての疾患によって世界全体が負う社会負担のうち、視覚、聴覚など感覚器疾患が12%を占める。ところが、国民医療費が年間32 兆円という日本の現状で、視覚障害医療費は9,800 億円、医療費全体に占める割合は3.1%に過ぎない、というのだ。
聴覚については、日本ではそもそも医療経済学的見地に立ったデータの蓄積がない。例えば米国では、聴覚障害者に対して補聴器による適切な補聴を行わない場合、米国全体での世帯所得減が1,220億ドル(約9兆5,000億円)に達すると見込まれ、それに伴う税収入が180 億ドル(約1兆4,000億円)減少するという研究報告もあるという。
視覚、聴覚障害者が仮に通常の人と同じような視覚、聴覚を取り戻したらどうだろうか。ご本人たちの生活の質が一変するだけでなく、社会全体として得られる経済的メリットは計り知れない。ちょっと考えただけでも分かる。
報告書をまとめた日本学術会議 臨床医学委員会 感覚器分科会の委員長だった田野 保雄 大阪大学医学部眼科 教授(当時)は、報告書公表の半年後に60歳で亡くなられた。立ち話ではあったが、生前、市民公開講座「見るよろこび、聞くよろこび -AVD の克服に向けて-」(2007年8月21日、日本学術会議 臨床医学委員会 感覚器分科会主催)の終了後に伺った言葉が忘れられない。
「視覚、聴覚で困っている人は大勢いるのに、日本は投入されている研究資金が恐ろしく少ない」