レビュー

編集だよりー 2011年10月20日編集だより

2011.10.20

小岩井忠道

 人工心臓の権威として国際的に知られた能勢之彦氏の訃報を、新聞記事で知った。79歳だったそうだ。米国で研究者の地位を築いたこの世代の日本人科学者というのは、おしなべて人間の大きい人が多い、とあらためて思う。

 米国に研究の場を求めた研究者に対し、かつて「頭脳流出」という表現がよく使われた。当時からこの表現には違和感を持つ。経済的に豊かな大国に行ってしまう有能な研究者に対する、うらみがましい思いがこもっているような気がしたからだろう。数年たてば戻れるという場所のあてもないまま片道切符で渡米し、実力だけで勝負しようという人たちではないか。もっとふさわしい形容詞があるはず、と思ったものだ。

 能勢氏より年齢は少し上で、「頭脳流出」の代表のようにみられていた1人に免疫学者の石坂公成氏がいる。米国での長い研究生活を終えた後に帰国したという点は、北海道大学医学部を出た後、渡米し、米国で一生を終えた能勢氏とちょっと違う。その石坂氏に昔聞いた話で、よく覚えていることがある。米国である知人宅のパーテーに呼ばれたら、日本人が招待されているのが気にくわないと思ったらしい客の1人に言われたそうだ。「君はガーデナー(植木屋)か」と。無論そんなはずはないと知りつつ、当時日本人の典型的な職業名を挙げて優越感に浸りたかったかららしい。氏も黙って聞き流すようなことはしなかった。

 「私はガーデナーではないが、ガーデナーは雇っている。そう主人が答えたのよ」。そばから口を挟んだ照子夫人(当時、公成氏ともどもジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授)の言葉に、大笑いしたものだ。

 能勢氏を訪ねたのは1980年代の後半で、当時、クリーブランド・クリニックの人工臓器研究所長をされていたと思う。クリーブランド・クリニックというのは、メイヨー・クリニック(ロチェスター)と並ぶ米国で最も大きな医療・研究機関だ、と能勢氏に教えられる。クリーブランドという大都市で、最も多くの雇用者を抱えるというのも驚きだったが、医療訴訟に対応するため数十人の専任弁護士が働いていると聞いて仰天した。医師をはじめとする人と施設を最大限に活用するため、患者の入院期間は日本とはまるで違って短い。その代わり、ホテルが併設されており、患者たちはそこに滞在して、治療を受ける時だけ病院の施設に移る。本当に必要な患者しか入院させないということらしい。

 能勢氏の下では、日本から多くの若い研究者が、研究生活を送っていた。大勢の希望者からどのような基準で選ぶのか、と聞いた時の答えが、また面白い。仮に4人を引き受けるとした場合、最も成績優秀な方から2人、逆に最も成績が悪い方から2人選ぶというのだ。成績優良者ばかりが将来、ものになるとは限らないということらしい。

 どういうわけか、自然災害の話になった。当時、指導的立場にある火山学者のことを、親しい国土庁(当時)の幹部がかんかんに怒っていたというのである。そのころ火山活動が問題になっていたのは三宅島だっただろうか。避難活動があてもなくずるずる続いて困るのは、災害対策本部が設けられている国土庁の幹部だけではない。しかし、助言すべき役割を与えられた立場にいる火山学者が、はっきりしたことは一切、言おうとしない姿勢を続けたというのである。科学者の社会的責任というのが、今ほど言われることがなかったころだ。「ありそうなことだなあ」。やり玉に挙げられた火山学者の顔を思い浮かべながら、思ったものだ。

 能勢氏の研究室を訪ねて印象に残ったことが、もうひとつある。途中で氏に写真を撮られたのだ。その後、棚から取り出して見せてくれたアルバムには、これまで氏の所に取材に来た記者の写真がずらっとはってあった。「撮った写真はここにはって保存しておきます」とのこと。取材先で取材相手から写真を撮られたのは、後にも先にも能勢氏だけである。

 研究者として立派な人は、昔からコミュニケーションの重要さ、ジャーナリズムの役割を十分に理解していたのだな、と今にして気付く。

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