「日本型テニュアトラックに関するシンポジウム」(東京農工大学主催)をのぞいた。テニュアというのは一般の人にはなじみが薄いと思われるが、米国の研究機関などではよく耳にする言葉だ。定年まで雇用が保証された教授などを指す。長い間、終身雇用が当たり前だった日本の大学、国立研究機関の教員、研究者には、このような言葉は必要なかったということだろう。
しかし、研究者の世界も簡単にはテニュアにはなれない時代になろうとしている。広く薄く研究費を支給する科学研究費補助金(科研費)中心の研究助成から、選ばれた研究プロジェクトに集中的に研究費を配分する競争的研究資金の役割が大きくなったことに伴う当然の現象とも言える。一定期間に限って相当の研究費が助成されるプロジェクトをすべて定年まで雇用が保障された研究者だけで進めることは無理だろうから。
欧州や他のアジア諸国の実情は分からないが、米国では大学を初めとする研究機関でテニュアは選ばれた地位である。若い研究者は博士号を取得してから、さらに実績を認められないと定年まで雇用が保障されるポストには就けないということだ。博士号を取得したばかりの若い研究者は、指導教官の下でそのまま研究生活を続けるよりは別のところに研究の場を求めることが望ましい。若い研究者にこうした武者修行を勧めるのが米国では一般的ということも聞いた。これもちょっと前までは、なかなか理解しにくかった。教授に見込まれた学生、大学院生がそのまま大学に助手として残り助教授、教授と階段を上がり、めでたく定年退官。日本の有力大学ではそれが当たり前に見えたからだ。
ところで、ポスドクの武者修行が普通の米国とはいえ、優秀なポスドクがほしいのは同じだ。自分の研究室を出た優秀なポスドクは経験を積ませるために外に出さざるを得ないのだから、自分の下には外から優秀なポスドクに来てもらわなければならない。売り込みに来たポスドクのうちだれをとるか、あるいはだれを送り先に推薦するかで、教授同士“微妙な”やりとりもある。そんな話を昔、石坂公成ジョンズ・ホプキンズ大学教授(当時)が笑いながら話してくれたことを思い出す。
この日傍聴したシンポジウムに「日本型」という言葉が付いているのは、一挙に米国のような仕組みは難しいということだろう。文部科学省の後押しで先行的にテニュアトラックという研究者育成コースを導入した大学のうち、今年度から始めた9大学が取り組みを報告した。5年間のコースを修了した後の処遇についてどうするかは本人次第。自分の大学でテニュアとして採用するかどうかも全く白紙、という大学もあれば、「自分の大学のために優秀な研究人材を育てるのが目的」と明言する大学もあり、さまざまだ。
「そもそもポスドクの皆が助教、准教授になれるならポスドクと同じ数だけの助教ポストが必要になる。助教になれるのはポスドクの一部、助教から准教授になるのはさらにその一部、という前提で物事を論じるべきだ」
テニュアトラックコース5年間修了後の処遇をどうするかという方向にパネルディスカッションの議論が進んだのに対し、会場からたまりかねたように声が挙がった。「それはそうだが」といった表情が、壇上の司会者やパネリストたちに一瞬浮かんだような気がした。日本の大学が米国型になるのはすぐには難しい、ということだろう。
一方、いったんテニュアになってしまったら定年まで業績のいかんにかかわらず安泰でいいのか、という問題がある。これについても同じ発言者が「研究室のスペースその他で何らかの対応が必要だ」という厳しい意見を表明していた。実際には、日本では難しいと思われるが、米国ではどうか。国立衛生研究所(NIH)の数少ない日本人テニュア(研究室長)に昔、尋ねてみたことがある。
研究業績がふるわず研究所ではやめさせたくてもやめさせられない研究者は、何と呼ばれているか。「deadwood」(枯れ木)というそうだ。deadwoodとみなされた研究者たちは、解雇はされないものの研究室をどんどん狭くされたりして、暗に退職を促されるという。何とも直截な答えにうなった。
もっともdeadwoodという表現に驚いたのは英語に弱い編集者だからだろう。後で辞書を調べたら「役に立たない人間」という訳がちゃんと載っていたから。