「原稿用意していない講演の方が面白い」。学生時代に寮生活でお世話になった公益財団法人水戸育英会の総会(5月28日)で、東日本大震災の話をさせられた後、寮の同期生から言われた。うれしがるようなことではない。同期生は一般論として言っただけで、編集者の話術を褒めたわけではないからだ。わが内実も、単に原稿を用意する余裕がなかったから、ぶっつけ本番の話になっただけである。しかし、これで独り合点した。
話は30分くらいで終わるのがよい。実際に、何人かから質問も出たではないか。これはわが話の出来が良かったからではない。早く終わったからだ。1時間たっぷりやったら、多分、皆の心境ははっきりしている。早く切り上げて懇親会に移ろうや、と。考えてみると、高名な研究者が大勢の聴衆を前に内容の濃い講演をしたのに、質問が一つも出ない。そんな光景を何度か見て、講演者が気の毒に思えた経験は数多い。そんな時のために主催者たる者、サクラ(質問要員)くらい配置していたらどうか、などと胸の中でつぶやいたことも。
翌々日(30日)、今度は職場内の勉強会で「分かりやすい文章の書き方」という話をした。こちらも原稿なしだ。もうちょっと長く話すつもりがこちらも30分ほどで終わってしまった。ここでも質問が結構出たので、2日前の独り合点は、ほとんど確信に近いものとなる。編集者程度の人間は、30分ほどで切り上げるのが分相応。何人もの質問に答えていると一方的に話をしただけより、よほど一仕事したという気分にもなる。立派な内容なのに質問の一つも出ない講演は、聴衆の大半が疲れ果ててしまっているのが多分大きな理由だろう。
この日は、落語の話でオチにすることを考えつく。原稿は用意しなかったけれど、こちらは早々と決めてどうしたものか思い悩んだのだが、なかなか良い考えが思いつかない。本筋の話は、欧米語や中国語圏の人たちには恐らく無縁と思われる日本語の特徴のために記者時代いかに苦労したか、だった。日本に元からあった和語と後から入ってきた漢語との「腐れ縁」を日本語は引きずっているという高島俊男氏の指摘(「漢字と日本人」、文春新書)は、1年前の勉強会で紹介ずみだ。ちなみに氏の指摘は「腐れ」が和語で、「縁」が漢語というところがミソである。
高島氏の指摘からこじつけた珍説を披露する。放送ニュースが新聞記事より分かりやすいのは、放送ニュースが和語をより多く使うのに対し、新聞記事は漢語が多いため。日本語の書き言葉はまだ十分成熟していると言えないのではないだろうか、と。さらに強引にオチに持っていった。
落語は分かりやすい日本語のモデルと編集者は思う。ところが、落語を聴いて肝心のオチの意味が分からず釈然としないことがしばしばある。オチが難しいのは、急に漢語、書き言葉になってしまうオチが多いからではないか。
勉強会の翌31日夜、内幸町ホールで立川志ら乃の独演会を聴く。この日は、古典ばかりだった。前の2つの噺(はなし)は、やはりオチに首をひねる。しかし、最後は「ねずみ」だ。左甚五郎が悲運のぼろ旅館父子のために彫った木彫りのねずみがたらいの中で動いていたのに、突然、動かなくなってしまう。目の前の旅館主である悪徳夫婦が甚五郎によって第一人者の地位を追われた彫り師に造らせた虎の彫り物ににらまれたためらしい。「あんな虎の彫り物ごときで何で動けなくなってしまうのか」。父子の知らせで駆けつけた甚五郎の問いに対するねずみの答(オチ)は、何度聞いても分かりやすくていい。
「え? あれ、虎ですかい? あっしは猫だと思った」