なかなか収まらない揺れに容易ならざるものを感じたが、東北地方太平洋沖地震の実際の被害の大きさは想像を絶した。
公共交通機関がほとんどストップと聞き、午後6時40分ごろ職場を出る。靖国通りを九段下経由で神田方向に向かうことにする。靖国通りに出た途端、歩道は神田方面から新宿方面に向かう男女の波だった。流れに逆らい、身をかわすようにして進むので、縁日の境内を歩くようなものだ。神田小川町まで着くのに40分以上かかった。
馴染みのそば店で休憩、腹ごしらえとする。帰宅をあきらめた近くの会社員たちだろうか。「ご飯ある?」。中には初めてと思われる客も含め、カウンターの席はすぐ満杯になり、2階にある個室からも次々に料理の注文が来る。あまりに忙しそうなので、いつも頼むそばがきはあきらめて切り上げる。代金は3千数百円。午後9時ちょっと前に店を出て、靖国通りと直行する本郷通りを神田小川町から南下する。
大手町から和田倉濠、馬場先濠(この辺から通りの名前は日比谷通りに変わるらしい)、日比谷公園わきを通過、内幸町のプレスセンタービルに手洗いのため寄る。再び歩き始めると、新橋方面から虎ノ門方面へ向かう女性の3人づれと交差する。オードブルらしきものの包みを下げて、何か楽しげだ。フムフム、職場で夜を過ごすのに供えた買出しか、と察する。
芝・増上寺前に来ると、寺の関係者だろう。「境内開放しています。ご利用ください」と通行人に呼びかけている。三田の区立港勤労福祉会館でも、職員が避難場所と書いた紙を玄関のガラス戸に張っているところだった。既に1階の大部屋には大勢の人々が休んでいるのが見える。
JRの田町駅と品川駅間は山手線の駅間としては長いので新駅計画が…。何かで読んだ覚えがあるが、実感する。「トイレご利用ください」。ここでも途中大きなビルの前で社員らしい人たちが通行人に呼びかけている。CSR(企業の社会的責任)を日ごろから重視、社員教育も徹底している企業の社員たちなのだろう。考えてみれば道路はどこも自動車で大混雑だったが、タクシーの姿はほとんど見なかった。営業用の車が社員たちを送っているのか、あるいは家族や友人を都心まで迎えに来た自家用車が多いのだろうか。
品川駅前に来ると、バスを待つ長蛇の列ができていた。少しでも自宅に近いところまでいければという人たちだろう。バスに首尾よく乗れたとしても、降りたところから自宅までどのくらい歩くのか。ちょっと気の毒に思ったが、こちらはここからは散歩道のようなものだ。神田小川町から約2時間半、四番町の職場を出てから約4時間40分かけて(途中、1時間半の休憩含む)、午後11時20分ごろ、JR山手線大崎駅近くの賃貸マンションにたどりつく。狭室に入ると「携帯が通じなかった」という娘からのメッセージが留守電に残っていた。郷里、茨城県日立市の叔母と電話が通じ、「家も被害を受けたが、近くの親類が迎えに来たのでこれから泊まりに行く、ということだった」とのこと。郷里では地縁、血縁も十分生きている、ということだろう。
大勢の方々が大変な思いをされているのに、なにを気楽なことを書き連ねているか、と憤激された方もおられたかもしれない。ひょっとして、数十年後にもまた誰かが読んでくれるかも、とも考えたからだ。あの未曾有の巨大地震が日本を襲ったその夜、東京の都心で働き、住んでいたごく普通の給与所得者がその夜、どんな行動をとったのか、に興味を持って…。
昨年、惜しまれつつ亡くなった作家、井上ひさしさんのなぜか忘れられない言葉がある。昔の人の日記は小説など創作の参考資料になる。ただし、立派な高説などが書き連ねてあるようなものはあまり役に立たない。一番ありがたいのは、日常的なことが細々書かれている日記というのだ。
○○から電車に乗り、○○円の乗車料金を払い、○時間かかって○○に着いた—。こんなその時点ではどうでもよいような記述が、後からその時代の小説など書く時にえらく役に立つ、と。