レビュー

編集だよりー 2010年8月11日編集だより

2010.08.11

小岩井忠道

 「それがどうした」と言われると、「だからどうということはない」。としか答えられないのが残念だが、女優の浅丘ルリ子さんとは父親同士が東亜同文書院の先輩後輩という縁がある。卒業後、父親が現地で就職し、お互い生まれは中国だ。

 浅丘さんの父上は新京(現・長春)にあった満州国政府の経済部に勤めていたことがあり、浅丘さんもそこで生まれた。数年前、長春を初め中国東北部(旧満州)を訪ねるドキュメンタリーをNHKテレビが放送し、これを見た郷里の叔母が「アンタ、浅丘ルリ子の父親も東亜同文書院の卒業生だそうよ」と大ニュースのように教えてくれたものだ。

 東亜同文書院は1901年に上海で創立され、日本人が海外につくった最も古い学校の一つという。文部省ではなく外務省の指定学校となり、終戦により廃校の運命をたどる。後継の大学を国内に、と関係者が動いたところ、GHQ(連合国軍総司令部)が許さない。「東亜同文書院とは関係ない」という声明を出させられて、1946年に愛知大学が誕生したという。

 手元にある東亜同文書院同窓会「滬友会」の名簿によると、浅丘さんの父上、源治郎氏は編集者の父親の16年先輩に当たる。

 浅丘さんはよく知られているように中学生の時に「緑はるかに」(1955年、井上梅次監督)でデビューしている。ルリ子という芸名は映画の主人公から付けられた。その「緑はるかに」が、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターで上映されるというので観に行った(8日)。小学生の時に観て以来、55年ぶりということになる。

 原作(北条誠)は読売新聞に連載されたというから、脚本の責任が大きいのかもしれない。ストーリーは、リアリズムなどあまり気にしないつくりである。外国の意を受けたスパイ団が奥多摩の山中に秘密基地を設けているというのもいかにも作り話的だし、そのスパイ団が、サーカス団を取り仕切っているというのもまた…。

 見終わって、米映画「オズの魔法使」との類似が気になった。こちらは1939年の作品というから「緑はるかに」の16年前につくられている。主演のジュディ・ガーランドは当時16、7歳だったから、当時の浅丘さんとは1、2歳しか上でない。「緑はるかに」は最初と最後にとってつけたような場面が出てくるが、これなどあきらかに「オズの魔法使」を意識したものではないか。現代劇なのに、夢の場面として月の女王や月の王子などが出てくるのである。

 ルリ子を助ける孤児院を脱走した少年3人組(チビ真、ノッポ、デブ)は、ガーランドを助ける「かかし」、「ブリキ人形」、「臆病(おくびょう)なライオン」のトリオを思わせる。

 浅丘ルリ子の歌う劇中歌はヒットしなかったようだが、ガーランドの歌った「虹の彼方に」(オーバー・ザ・レインボー)は世界中でいまだに歌い継がれている。そういえば「緑はるかに」という題名も「虹の彼方に」とどこか似ているではないか。

 とはいえ、スパイ団が狙う研究の秘密が入った緑色のオルゴールを探し、少年少女たちが奥多摩から河口付近まで川縁をたどっていくシーンは、復興途上にある当時の東京の情景を思い出させて懐かしかった(河口近くの場面の撮影場所は隅田川だったそうだが)。川縁の廃墟の中で、浅丘ルリ子が食事にするおにぎりを握っているシーンもほほえましい。編集者の幼少時には地方都市でも野宿できそうながれきが残るこんな場所は珍しくなかった。

 映画だけ、欧米の真似をしてはいけないという法はないし、真似はけしからんなどといったらそれこそ不公平だ。むしろ海外に大きな影響を与えた日本映画の名作も少なくないことを誇るべきだろう。国内映画への投資がめっきり減って、映画製作のノウハウや人材が先細りになっていることこそ、問題にすべきではないのか、という気がする。

 今、映画監督の大きな悩みは、資金に加え、個性豊かでと存在感のある俳優が昔ほどいないことではないだろうか。「緑はるかに」の少年3人組たちは、表情、仕草が今の子どもたちにはなかなか見られない個性と元気さがあったように見える。美少女、浅丘ルリ子を十分に盛り立てながら。

関連記事

ページトップへ