目も耳も肥えた鑑賞者は別のことを言うかもしれないが、オペラは舞台のすぐ近くで見るのが一番。11日東京文化会館で「愛の妙薬」(ベルガモ・ドニゼッティ劇場)を観て、つくづく思った。オペラがこれほど面白いと感じたのも、記憶にない。
オペラの歌手というのは、演技は二の次(でよい)などと勝手に思いこんでいたのも、考えを改めた。とにかく2列目で見ると歌手たちの表情がつぶさに見て取れる。女主人公役のソプラノ歌手、デジレ・ランカトーレの表情、仕草が実に豊かで、俳優としても十分やっていけるのでは、と感じられたのが新鮮な驚きであった。太っていない主役のソプラノの方が珍しい。わが貧弱な鑑賞経験が、知らず知らずのうちに演技力を軽視するようにしてしまったのだろう。
このイタリアオペラが音楽史上どれほどの位置を占めているのか分からないが、日本人向きの作品ではないかという気がした。狂言の笑いの中にはあらゆる人生が含まれている。そんな意味のことを言った狂言師がいたような気がするが、日本人の多くが持つ笑いの感覚とこのオペラの面白さとに通じるところがあるからかもしれない。つれない態度をとり続ける女主人公を何とかしようと滑稽(こっけい)な策略をめぐらす主人公役のテノール歌手も実にそれらしく演じていた。さらに、この主人公に「愛の妙薬」と称して単なるワインを売りつけるいかがわしい男もまた、適役としかいいようのない風ぼうと演技(無論歌唱力も)で、観客の大きな拍手がそれを裏付ける。
要するに「ベルガモ・ドニゼッティ劇場」が、このオペラをすっかり手の中に入れているということだろう。
悲劇か、喜劇か。オペラ史上でも流行廃りはあっただろうし、一方、どちらもそれぞれ確たる評価を得ている名作というものはあると思う。3日前に観たばかりの「椿姫」(同じ「ベルガモ・ドニゼッティ劇場」)もよくできたオペラだと感心したばかりだし、2カ月前にも「アイーダ」(プラハ国立歌劇場)を観て、「最初から最後まで退屈せずに済むこんな歌劇はあまりないのでは」などと褒めあげたばかりだ(2009年10月30日編集だより参照)。
しかし、「愛の妙薬」にすっかり堪能してしまうと、「アイーダ」も「椿姫」も前半のすばらしさに比べると後半ちょいと退屈ではないか。なんてヴェルディ・ファンが目をむくような不遜な思いがわいてくる。まあ、元々、悲劇より喜劇が向いている人間ということに過ぎないだけかもしれないが…。
だいぶ頼りないけれど愛すべき主人公は西田敏行が演じても全く違和感がなさそう。そんな印象も抱いたが、鑑賞後の酒席で友人たちの1人が全く同じことを言ったのに驚いた。