日韓併合という韓国にとっては屈辱の時代にあって、韓国の医学教育に人生の大半を捧げた日本人医師、佐藤剛蔵に焦点を当てたシンポジウムをのぞいた(2009年2月23日レビュー「歴史に学ぶ」参照)。
韓国から来られたソウル大学の教授が、1930年代の韓人医師たちの出身と分布について報告した中に「北医南法」という初めて聞く言葉が出て来る。医学生の出身者は、南朝鮮地域より人口が少ない北朝鮮地域の方が多い、というのである。その理由は、「北朝鮮地域は伝統的に文官の任用において差別された。南朝鮮地域は伝統的に文官指向が強く、行政官と法官への進出が目立っている」からという。
このシンポジウムの韓国側中心人物は、佐藤剛蔵が校長をしていた京城医専の卒業生、朱軫淳・高麗大学名誉教授である。「医師の出身地域でどうしてそんな差が?」。シンポジウム後のレセプションで、朱さんに質問してみた。朝鮮王朝の創始者である李成桂が、北朝鮮出身者は自分を脅かす存在になるとして排除したから、という。それだけならそれほどびっくりすることもないが、李成桂自身が北朝鮮地域の中東部、咸鏡南道にある永興の出身であるにもかかわらず、というから驚く。わが薩長あるいは薩長土肥による藩閥政治などとは正反対だ。ともかくそれ以来、北朝鮮地域の出身者は要職に就けない。やむなく文官向きの法学より身を立てやすい医学を選んだ人間が多いという。朱氏自身も咸興という咸鏡南道にある北朝鮮地域の出身である。
実は恥ずかしいことに李成桂という人物については何も知らなかった。帰宅後、インターネットで調べてようやく大変な人物と知る。500年余り続く朝鮮王朝の創始者として覇権を握るまでの経緯は、少々ややこしい。当時、朝鮮半島を支配していた高麗の武官として外敵の明と対決するふりをしてクーデターを起こし、高麗王朝に代わる朝鮮王朝を打ち立てた、とある。しかし、同郷の人間を警戒して、重用しなかったという理由は、どうにも理解に苦しむ。ウェブサイトを探すうちに、李成桂はモンゴル人という研究者の新説を紹介する朝鮮日報の記事が出てきた。ただし、これには賛否両論あると書いてある。
続いて「『二君に仕えず』、李成桂 拒絶した忠臣たち」という朝鮮新報の記事が見つかった。これを読んで朱さんの話もようやく納得できるような気になった。李成桂に滅ぼされた高麗王の旧臣たちは、李成桂と対決するか、あるいは配下になるのを潔しとせずに、斬首されたり焼き殺されたりしたと書いてある。「李成桂が北朝鮮地域の人物を自分に逆らうとして重用しなかったり、殺したりもした」と朱さんが言ったのはこのことだったのだ。朝鮮新報の記事によると「李成桂は朝鮮王朝の太祖となったが、高麗王朝の忠臣たちを取り入れることはできなかった」という。同郷の人間で周りを固めようにもできなかった。そんな事情もあったということだろうか。
それにしても李成桂というのは14世紀から15世紀初めの人物である。こんな対立が20世紀まで続くものだろうか。北朝鮮地域の人たちが文官の道を選ば(べ)ず、医師の道に進んだ人が多いというような…。映画「光州5・18」(2008年4月12日編集だより参照)は、半島南側での光州差別という現実を描いていたが、南北の対立もまた、朝鮮戦争のはるか昔にさかのぼる根深いものがあるということだろうか。