日本学術会議主催のシンポジウム「生命を守る医と食の安心、安全のために」を傍聴した。冒頭あいさつした金澤一郎・日本学術会議会長が、安全、安心、特に安心というのが一筋縄でいかないことを、ユーモア交じりに語り、会場を沸かせていた。
「私は日本で生活したおかげで電車を4分待つのも苦痛になった。ニュージーランドでは15分おきにしか来ないバスを利用していて何も不満など感じなかったのに。帰国したらトイレで冷たい便器に座るのもつらい。日本からニュージーランドに戻るのが、とても悲しい気持ちだ」
金澤氏が紹介したニュージーランド人の女性研究者の言葉である。この研究者が冗談半分に言った可能性もあるから、割り引いて受け止めた方がよいかもしれない。しかし、「ベストを望む日本人の性格ゆえの話」という金澤氏のコメントになるほどという気がした。座ると温かい洋式便器があるのは日本くらいではないか、という氏の指摘が正しいかどうかは分からないが、とにかくニュージーランドではそんなぜいたくなものなどなかった、ということだろうから。
ものづくりでベストを求めるのはよいとして、安心を求める気持ち、行為が過度になると考えもの。金澤氏のあいさつの根底にある思いはよく分かる。牛海綿状脳症(BSE)対策として国民の多くが求める牛の検査法や、遺伝子組み換え食品に対する拒否感に対する疑問を日ごろから明らかにしているからだ(2008年11月14日ハイライト「科学と社会の正しい情報交流を」参照)。
健康やダイエットにココアがよい、納豆がよい、バナナがよいなどと専門家以外の人が言っただけで多くの人が信用してしまう。半面、研究者が時間をかけて検討した結果でも、社会になかなか受け入れられない。この日に限らずいろいろなシンポジウムなどを傍聴して、こうした世情は簡単には変わらないだろうという思いを強くする。
安全と安心の問題は、確かに厄介だ。「たばこを吸うとがんになるなんて信じない。たばこを吸っていて長生きしている人いくらでもいるではないか」。昔、身近にいた人間に喫煙の危険性を説いて反撃され、すぐさじを投げたことがある。小学生や中学生の時代に、分数や割合といった考え方を身につけずに大人になってしまった人と、安全論議をするのは実に難しい。一方、確率というのを十分承知の上で、未来永劫にわたって百%安全であることが証明されない限り安全と認めない、という主張をする人もいるだろうから、こちらの方も、合意点を探るのは困難ということだろう。
安全、安心でかつ地球に理不尽な負荷を与えない社会づくりの道は険しい。研究者の発言力が高まらない限り、展望は開けないのではと思うが、今日のような中身の濃いシンポジウムをのぞくと同情したくもなる。全国から集まった立派な研究者の報告を聞いている人の数がいかにも少ない。アカデミズムにはどうもサポーターが少なすぎるのでは、とあらためて感じる。
もっとも編集者も通信社記者時代は、すぐ記事になる報告がありそうもないシンポジウムには冷たかったが…。

