映画監督の小泉堯史氏、NHKエデュケーショナル社長の軍司達男氏(二人とも編集者の高校の同級生)と、大竹洋子さん(東京国際女性映画祭ディレクター)を囲んで、一杯やった(25日)。もっとも小泉氏と大竹さんは全く飲めないのでお茶を飲んでいただけだが…。趣旨は、大竹さんが「山路ふみ子映画功労賞」を受賞したお祝いだ。大竹さんの受賞は長年、中心になって主催している東京国際女性映画祭などの実績に対してと思われるが、同映画祭の昨年の上映作品「心理学者原口鶴子の青春」を撮った泉悦子監督(2007年10月24日編集だより参照)も、福祉賞を受賞している。
「賞金300万円全部私がもらったと思っている人がいるの」。大竹さんが笑う。賞は6部門あり、300万円は全部門を合わせた額ということだ。しかし小泉監督によると「○○コンクールは賞金なんてないよ」ということである。映画賞というのは大きく報道されるし、相応の賞金が出るものと思っていたら、むしろない方が普通らしい。賞の主催者は新聞、雑誌、放送といったメディアが少なくないから、賞を出す側にしてみればただで宣伝してやっている、という姿勢なのだろうか。しかし、選考委員には応分の謝礼を出しているだろう。作品あっての「○○映画賞」「○○コンクール」である。受賞者にも賞金を出してよさそうだが、長年の慣例、考えというのは簡単に変えられないということだろうか。
メセナということが叫ばれた時期があった。企業によるメセナ(芸術文化支援)活動の活性化を目的に、社団法人メセナ協議会が1990年に発足し、今でも活動を続けている。東京国際女性映画祭も、かつては企業から多くの支援があったそうだ。いまは、相当な様変わりという。大竹さんによると、資金集めにずっと協力してくれていた日本を代表する広告会社から「来年から協力できない」と通告されたそうだ。来年で22回となる東京国際女性映画祭が万一、資金難で中止に、なんてことになると寂しい。そうならないよう祈るばかりだ。
翌26日、軍司氏に誘われ、室生能楽堂で、多田富雄氏の新作能「花供養」を観賞する。多田氏は免疫学者としての方が有名だろうが、能作家、文筆家としても精力的な活動をしている。脳梗塞で倒れ、体を自由に動かすこともままならないばかりか、言葉も失うなど大きな試練を経た後も執筆活動は旺盛だ。その姿をNHKのテレビ番組で見て、感動した人も多いのではないだろうか。さらに最近は、リハビリ期間の制限という政策を導入した厚労省に対して激しい抗議活動を続け、怒れる弱者の先頭に立っていることでもよく知られる。1984年に文化功労者に選ばれているが、文化勲章は受章しにくくなるのでは、などと心配するのは凡人の余計なお世話だろう。
多田氏が最初に書いた能は脳死をテーマにした「無明の井」である。この初演を10数年前に鑑賞し、能は気楽に鑑賞できる対象ではない、と痛感したことを思い出す。今回の「花供養」は、多田氏が非常に親しかったという白洲正子没後10年追悼公演と銘打っており、白洲正子自身が主人公である。
能にアイという役割があるというのを実は、今回、初めて知った。このアイの役の代わりにということらしい。女優の真野響子さんが普通の着物姿で現れ、観客あるいはワキ(旅の男)に向かって、白洲正子と能のかかわりについて普通の言葉で語る場面が挿入されている。ここだけはよく聞き取れた。白洲正子が能をプツリとやめてしまったのは、「蝉丸」という演目でシテ「逆髪」を演じた舞台を小林秀雄や青山二郎からこっぴどく批判されたのが原因と言っていた。
白洲正子という人は、小林秀雄や青山二郎あるいは河上徹太郎といった著名な知識人と若いころから親しい付き合いがあった。多田氏とも晩年、深い交友があったことが、プログラムに書かれた氏の文章からも伺われる。「生涯の最後のお友達のつもりです」と言われたという。お互い深く尊敬し合っていたことが想像できる。この日の作品「「花供養」の中で多田氏が描こうとした白洲正子の真髄がいかなるものか。当然というか残念ながらほとんど理解できなかったが、氏の文章の中で気になった言葉がある。「両性具有の美意識」、「両性具有の花の精」と「両性具有」が2カ所に出てくる。男女の違いなど、あるいは男女間の愛などは超越したところに存在する美ということなのだろうか。
この日の公演は、INSLA(自然科学とリベラルアーツを統合する会)が後援していた。多田氏が代表となり2007年3月に設立した組織だ。多田氏の書いた設立趣意書には次のように「リベラルアーツ」の重要性が書かれている。
「科学や技術の進歩に必然的に含まれる光と影は、当事者である科学者だけでは解決できない。…科学の問題点を解決出来るのは、「科学の知」と「人文の知」の統合だけである。広い意味での教養、「リベラルアーツの知」 がなければならない。一方、文化や社会の問題を客観的に眺めるためには、「科学の知」を取り込んだ分析が必須である。したがっていずれの場合でも自然科学とリベラルアーツをアマルガメートした知が必要となろう」
100年に一度といわれる金融危機や、政治の混迷の中で今年も暮れようとしている。当サイトでささやかではあるが、何度か「リベラルアーツ」の重要性を紹介させてもらった。昔の旧制高校時代まで戻るのは非現実的だろうが、高等教育において、もっとリベラルアーツ、幅広い教養が重視されてもよいのではないだろうか。
年の終わりに当たって、あらためて考えた。