レビュー

編集だよりー 2008年11月16日編集だより

2008.11.16

小岩井忠道

 早稲田奉仕園で開かれたカンボジア教育支援基金・東京の総会に出席した。

 カンボジア教育支援基金は、プノンペン支局長を務めたことのある共同通信記者、村井孝至氏(故人)によって1993年に創設された。以来、5つの小中学校をカンボジアに建設し、生徒の奨学金や教師への支援、ボランティア教師の派遣などを続けている。教師への支援というとピンとこない人もいるかと思うが、金銭的な補助である。カンボジアは後発開発途上国(1人あたりの年間国民総所得が750ドル以下)に含まれている国で、教師も農業などの兼業でないと食べていけない。休みがちなのは家の手伝いをしなければならない生徒だけでなく、先生もしばしば休まざるを得ないのが現実という。できるだけ学校に来てもらうというのが教師へ金銭的な支援をする狙いである。

 この種の活動には頭が下がる。できれば好き勝手に過ごした人生の最後の部分くらいこうした活動もしなければ。と時々思うのだが、実際に自分で何かできるか考えるとしり込みしてしまう。会費を払うことくらいしか役に立てることはなさそうだ。グローバル化の時代、英語がからきし駄目な人間というのは、ますます使い途が限られているとつくづく感じる。

 そもそも基金のことを知ったのは、公私ともにお世話になりっぱなしの金子敦郎氏(元共同通信記者、元大阪国際大学学長)が、大学の仕事に一区切りついたのを機に基金の共同代表に就任したのがきっかけである。金子氏は、ベトナム戦争時、サイゴン特派員としてインドシナ半島の激動を取材、カンボジア報道にも直接かかわっている人だ(当サイトのインタビュー欄にも登場された。「世界を不幸にする原爆カード−ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」参照)

 せめて総会に出席するくらいは、という気持ちで顔を出したのだが、このような国際ボランティア活動には、なかなかに厄介な問題が伴うものだということが、あらためて分かる。

 カンボジアは、米映画「キリング・フィールド」(1984年)でも描かれているように、長年の内戦で国土も国民の心も計り知れないダメージを被っている。村井氏とともに基金創設にかかわったカンボジア人のコン・ボーン氏は、元共同通信プノンペン支局の助手で、一時、祖国を離れざるを得なかった。現在は、カンボジアに戻り、98年には、村井氏とともにカンボジア政府から国家建設功労賞を授与されている。

 ところが、昨年、そのコン・ボーン氏からカンボジア教育支援基金に対し、基金の支援で建設された「カンボジア日本友好学園」への支援拒否が通告された、という。その後、東京の組織が「カンボジア教育支援基金」を名乗ることも認めない、というところまで話がこじれてしまったようだ。ボーン氏の主張は、カンボジア教育支援基金は、ボーン氏個人が設立した組織であり、カンボジア政府にもNGO団体として登録済み。東京の組織は基金とは関係ない、ということらしい。

 基金設立の経緯やこれまでの活動を見ると、ボーン氏の対応は理解困難なところがある。感情的な問題が、抜き差しならないところまでいってしまったのだろうか、というくらいの想像しか門外漢にはできない。とにかく、教科書もろくに行き渡らないカンボジアの子どもたちの教育支援を10数年にわたって続けて来た基金が、設立以来、最も厄介な問題に直面していることは間違いなさそうだ。総会では、会長制を導入し、金子氏が会長に就任、会の名称も英語表記だけは、ボーン氏がカンボジア政府に登録ずみの従来表記から、変更するなどの会則変更が賛成多数で決まった。

 しゃんしゃんとは行かなかった総会もとにかく終わり、近くの居酒屋でインドシナ半島の話などに花が咲いた。ベトナムとカンボジアの国民性に関する金子氏の話が、面白い。主要な都市の大通りに人の名前を付けるというのは、両国に限らず多くの国に見られる。ベトナムの場合は、外国と闘った将軍の名を付けた道路が多い。ところが、カンボジアには、毛沢東やド・ゴールなど外国人の名前を付けた道路がある、というのだ。

 米国がベトナム戦争の泥沼に陥ったのも、ベトナムのそんな国民性を軽視したからではないか、と思うと、なるほどという感じがする。

 このところ編集者が大学時代に世話になった水戸育英会の寄宿生OB会機関誌の編集作業に結構、時間を取られている。ベトナム・ハノイに最近まで5年半ほど駐在していた寄宿生同期の今川浩氏に書いてもらった原稿に以下のような記述があった。

 「ベトナム人の気質の中に、リベート等を含め贈収賄は当然のことという考えがあるのは確かです。高学歴で高い地位に就いた清廉な息子が汚職をしないので、母親が『そんな息子に育てた覚えは無い』と嘆いたという話があります」

 人間の感情、国民性といったものは複雑で、一言で決めつけたりしない方がよい、ということだろうか。

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