レポート

東日本大震災から12年でも復興は「道半ば」 住民の1割が犠牲になった宮城県名取市・閖上から

2023.03.27

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト(東日本大震災当時共同通信仙台支社長)

 約2万2000人もの犠牲者を出した東日本大震災は3月11日の発生から12年が過ぎた。この日、岩手、宮城、福島3県の被災各地の沿岸部は朝から鎮魂の祈りに包まれ、犠牲者を追悼するさまざまな行事が続いた。多くの犠牲者を出した被災地の一つ、宮城県名取市・閖上(ゆりあげ)地区でも多くの遺族や住民らが慰霊碑を訪れて献花した。

 閖上地区は太平洋に面し、名取川南岸に位置する。江戸時代は仙台藩直轄の港として仙台に魚介類を供給しながら栄え、漁業のほか農業も盛んだったと伝えられる。大震災前は沿岸部に多くの住宅が建ち、旧閖上町付近には2000世帯以上約5700人が住んでいた。しかし大津波に襲われて住民の約1割にも及ぶ約750人が犠牲になった。名取市全体では1000人近い市民の尊い命が失われている。

 震災直後、とてつもない量のがれきの町となった沿岸部は復興が遅れた。それでもその後、公園が整備され、堤防沿いには復興のシンボルとして商業施設「かわまちてらす閖上」や震災復興伝承館などが、高台には災害公営住宅が建った。休祭日には地区外、県・市外の人も含め多くの人で商業施設は大勢の人たちで賑わう。さまざまな店舗などでは復興を担う地元の若い人たちの元気な声も聞かれる。

 だが、公営住宅は沿岸部からかなり離れた後背地に位置し、地域の人々が行き交う沿岸の町のかつての賑わいは今では見られない。地区のシンボルである高さ6.3メートルの日和山から沿岸部を見渡す風景は依然広大な更地が広がり、復興がいまだに「道半ば」であることを物語っている。

閖上地区にある日和山から沿岸部方向を見下ろした風景。日和山近くに震災メモリアル公園ができた(3月13日午後撮影)
閖上地区にある日和山から沿岸部方向を見下ろした風景。日和山近くに震災メモリアル公園ができた(3月13日午後撮影)
日和山から西方向を見下ろした風景(3月13日午後撮影)
日和山から西方向を見下ろした風景(3月13日午後撮影)

どす黒い大津波が町をのみこんで

 「あの日」の午後2時46分。東北地方は沿岸部から内陸部にわたって激しい揺れに見舞われ、最大震度7を記録。その後沿岸部には波高10メートルを大きく超える大津波が襲った。閖上地区にも大地震から1時間前後の間にどす黒い、波高8メートル以上の津波が押し寄せ、海辺の町をのみこんでいった。

 河北新報社(本社・仙台市青葉区)は大震災約1カ月後の2011年4月12日から「大津波の瞬間、人は何を見て、どう行動したのか」を伝える「私が見た大津波」シリーズの連載を始めた。そのシリーズの中で何度か閖上の惨状も伝えた。同年5月16日には「7メートルの白い壁、川さかのぼる」の見出しで、閖上地区で燃料店を経営する男性の証言を掲載している。その記事から引用する。

 「(地震から)40~50分後でしょうか。閖上大橋の近くで『津波が来るぞ』という声を聞き、橋に上がりました。トラックの屋根に上ると、高さ7メートルほどの白い壁が堤防からあふれながら、名取川をさかのぼってきました。津波は3回。いずれも橋の下すれすれを通りました。海のにおいも、建物が崩れる音も、人の叫び声もしたはずですが、目にした光景に驚いて、思い出せません。堤防にたどり着いた人はわずかでした。橋の上に30人、近くの歩道橋に30人ほどしかいないのを見て、『閖上の住民は、ここにいるだけになってしまったのだろうか』と不安になりました。津波で流された家からは炎が上がっていました。すごい勢いで燃えていました」。

 閖上地区は壊滅的な被害を受けた。犠牲者の中には主に帰宅後に流された14人の閖上中学校の生徒も含まれ、大震災の翌年に14人の名が刻まれた慰霊碑も建てられている。

震災メモリアル公園の祈りの広場に建てられた東日本大震災慰霊碑。空に伸びる「芽生えの塔」は津波高と同じ8.4メートル。閖上地区で亡くなった人の全員の名前も刻まれている(3月13日午後撮影)
震災メモリアル公園の祈りの広場に建てられた東日本大震災慰霊碑。空に伸びる「芽生えの塔」は津波高と同じ8.4メートル。閖上地区で亡くなった人の全員の名前も刻まれている(3月13日午後撮影)
犠牲になった閖上中学校の14人の名が刻まれた慰霊碑(2017年9月撮影)
犠牲になった閖上中学校の14人の名が刻まれた慰霊碑(2017年9月撮影)

かわまちてらす閖上がランドマーク

 大震災後、定期的に被災地閖上地区を訪れ、地区の変遷を見てきた。海辺近くに密集していた住宅はほとんど流されて広い範囲が更地になった。被害の規模があまりに甚大だったため、復興のスタートは遅れた。高台への移転か、現地を盛り土しての再建か、で住民の意見がなかなかまとまらない場面もあった。被災地の人たちは「がれき」という言葉を嫌う。その一つ一つに家族の日々の生活の痕跡があるからだ。その量があまりに多いために区画整理に時間がかかった。

 大震災から6年経った2017年3月、名取市は11年10月につくった震災復興計画の改訂版を策定し、復興作業に弾みが付いた。新しい復興計画は基本方針の中で、「コミュニティの絆を強化し、市民力を結集したまちづくりを展開する」「定住促進と交流人口の拡大による賑わいのあるまちを形成する」など6つの重点課題を掲げている。

 閖上地区は18年以降、公園や新しい公共施設や商業施設が相次いで完成した。同年の暮れまでに災害公営住宅600戸以上が完成。翌年春ごろには中央公園や公民館・体育館もできた。19年4月には復興計画基本方針を生かし、名取市が進める沿岸部の「閖上地区まちなか再生計画区域」の堤防沿いに、かわまちてらす閖上も完成した。

 かわまちてらす閖上は地元名産の魚介類を提供する飲食店や魚介類・野菜類などの販売店など26店舗が軒を連ねている。地元住民のほか、名取市の閖上地区外や同市・宮城県の外から支援などのために移住した人たちが運営し、多くの店舗は若い世代が活躍。土・日を中心に多い時は1日1000人以上、イベントがある日などは数千人以上が訪れ、地元住民と県外から来た支援目的の観光客らとの交流の場にもなっている。

 かわまちてらす閖上についてホームページは「閖上のランドマークです。東日本大震災で津波による大きな被害を受けた閖上地区ですが、地元の事業者、応援者による新たなまちづくりが実を結び、港町に活気と人々の憩いの場が戻ってきました」と紹介している。

閖上地区の新しい復興関連施設などの場所が記された「閖上マップ」 (名取市提供)
閖上地区の新しい復興関連施設などの場所が記された「閖上マップ」 (名取市提供)
かわまちてらす閖上の一部(3月13日午後撮影)
かわまちてらす閖上の一部(3月13日午後撮影)

「記憶」を継承し、防災・減災の大切さも伝える

 大震災からちょうど12年となった3月11日。その翌々日の13日午後に閖上地区を訪ね、整備された堤防に立つと海の香りも震災前と少し変ったような気がした。

 11日の訪問はできなかったが、地元関係者によると11日は大地震があった午後2時46分を中心に震災メモリアル公園祈りの広場で追悼のつどいが行われ、大切な家族を失った人たちが慰霊碑に献花し、祈りを捧げた。また広場から少し離れた津波復興祈念資料館「閖上の記憶」の近くでは、亡き人へのメッセージが書かれた260個のハト形風船を空に飛ばした。日が暮れるとメモリアル公園では、さまざまな絵や文字が描かれた約1000個の電子絵灯籠(とうろう)に火がともされて犠牲者を鎮魂したという。

 閖上地区東側の閖上魚港では日曜、祝祭日だけだが「ゆりあげ港朝市」が開かれ新しい観光スポットとして大勢の人たちで賑わう。隣接する「メイプル館」では平日でも食事ができる。12日の日曜日にもこの朝市が開かれ、一般の人を対象にした「せり」が行われ、地元魚介類などが歓声の中で次々と競り落とされていったという。

整備された閖上地区の一角に建つ災害公営住宅(3月13日午後撮影)
整備された閖上地区の一角に建つ災害公営住宅(3月13日午後撮影)

 13日午後の閖上地区は肌寒い小雨模様だった。「追悼の日」の11日に大勢見られたという追悼の人々の姿や、かわまちてらす閖上とゆりあげ港朝市の賑わいはなかった。震災メモリアル公園近くの日和山に上ると沿岸部の約800メートル先にかわまちてらす閖上が、西南方向、1キロ以上離れた先の後背地に更地を挟んで災害公営住宅なども見えた。

 かわまちてらす閖上と同じように沿岸部の堤防沿いに建つ名取市災害復興伝承館に入ると館内は閑散としていた。伝承館は20年5月に完成。「閖上の記憶」を継承し、防災・減災の大切さも伝えることを目的に、大震災当時の写真など多くの資料が展示されている。館内入り口付近には震災前の町並みの模型が設置され、名取川河口付近や漁港もあった沿岸部付近に住宅が密集していたことを伝えている。

訪れる人も少なく静かな名取市災害復興伝承館内の様子。中央は展示された大震災前の閖上地区の立体模型(3月13日午後撮影)
訪れる人も少なく静かな名取市災害復興伝承館内の様子。中央は展示された大震災前の閖上地区の立体模型(3月13日午後撮影)
名取市災害復興伝承館に展示された大震災前の閖上地区の立体模型の一部。沿岸部に住宅が密集していたことが分かる(3月13日午後撮影)
名取市災害復興伝承館に展示された大震災前の閖上地区の立体模型の一部。沿岸部に住宅が密集していたことが分かる(3月13日午後撮影)

「3.11」は長い道のりの一日でしかない

 子どもを含めて多くの犠牲者を出した被災地・閖上地区にも、他の被災地と同じように大震災から12年の時が流れた。地元の人たち、地区外の若い人たちのたゆまぬ努力により賑わいを取り戻しつつある。名取市は20年3月、「愛されるふるさと・なとり」をスローガンに30年を期限にした第6次長期総合計画を策定、3年目に当たる今年も精力的に復興を進めている。

 だが、災害公営住宅で減った地元の人々の交流の実態などを見ると、この計画で課題として掲げた「定住促進」「コミュニティの再生」「持続可能な町づくり」などの点ではまだまだ道半ばだ。

 仙台市で開かれた「第3回世界防災フォーラム」の開会式があった3月10日、東北大学の大野英男総長は「沿岸部を訪れると、がれきは撤去され、道路や鉄道、防波堤など目に見えるインフラは整備されたが、まだまだ課題は残っている。被災地で復興という言葉を聞かなくなるまでが復興だ」と述べている。

 名取市の被災者の1人、70代の男性は「3.11と言うが私たちにとっては失った人のことを思い続ける復興への長い道のりの一日でしかない。それでも多くの人には1年で1回でもいい。あの大震災の惨禍に思いを馳せてもらえれば嬉しい」と話していた。

名取市災害復興伝承館内に掲示された東日本大震災直後の同市閖上地区の様子を伝える写真(名取市災害復興伝承館提供)
名取市災害復興伝承館内に掲示された東日本大震災直後の同市閖上地区の様子を伝える写真(名取市災害復興伝承館提供)

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