レポート

研究開発戦略ローンチアウトー第92回「ファラデーに学ぶ科学・技術・イノベーションの明かりの灯し方」

2019.12.03

松村郷史 氏 / 科学技術振興機構 研究開発戦略センター 環境・エネルギーユニット フェロー

名著「ろうそくの科学」

松村郷史 氏
松村郷史 氏
(佐藤勝昭 氏による似顔絵)

 吉野彰博士が2019年のノーベル化学賞受賞のインタビューで、子どものころに感銘を受けた書籍として紹介された「ろうそくの科学」。そのおかげで再び脚光を浴び、在庫不足で重版が決まったといううれしい悲鳴が聞こえる。ファラデーを尊敬する私も二重に喜ばしく、気分爽快だ。

 この書籍は、マイケル・ファラデー(1791〜1867年)が1860年に行ったクリスマスレクチャー "The Chemical History of Candle" の邦訳版だ。「1本のろうそくの身の上話をどうぞ聞いてください」と当代随一の自然哲学者ファラデーが子どもたちに語りかけた講話の記録を、若きウィリアム・クルックス卿(1832〜1919年)が編集したものだ。

 1860年当時、暗闇を照らす光源といえば、ろうそくとガス灯しか普及してない。まだ白熱電球は実用発明前、発光ダイオード(LED)はもちろん着想さえ存在しない。当時、身近にありふれた汎用品のちっぽけなろうそくでさえ、優れた自然哲学者の目で見れば、自然の本質、人間の知恵と工夫を楽しく学べる教材になっている。

 実演を交えながらの講話で、ろうそくの芯が毛細管現象で燃料を供給していること、物質の三態(気体、液体、固体)、物質の燃焼にまつわる化学反応(アントワーヌ・ラヴォアジェがもたらした化学における革命を継承)、大気圧の存在、金属のさびと燃焼、燃焼と呼吸の共通点など、化学の目を楽しく教えてくれている。実演の様子は文字だけでは想像しにくいため、クルックス卿らは図面付きで書籍化している。日本では昨年、白川英樹博士(2000年のノーベル化学賞受賞者)が監修したカラー写真付きの親切な解説書も発行されていて大変素晴らしい。

 「ろうそくの科学」の序文で、クルックス卿は、“the Lamp of Science must burn”と記しており、実は子どもよりも大人、特に後進たちを最も感動させていたのではないかと思われて仕方ない。1860年のろうそくの科学は、ファラデーの最終講話と予告されており、この記録を遺した人々の想いも偲ばれる。

1855年のクリスマスレクチャー。聴衆は老若男女さまざま。
1855年のクリスマスレクチャー。聴衆は老若男女さまざま。

英国版・二宮金次郎の科学・技術の業績

 ファラデーは「最高の実験科学者」「電磁気学の父」として科学史に不朽の名声を刻むが、日本の教育課程では理系に進まないと名前を聞く機会がほとんどない。ただ、ファラデーと、その後進たちがもたらした成果には現代日本で暮らす誰しもが恩恵を受けている。

 その生涯はまさに英国版の二宮金次郎(1787〜1856年)といえる偉人の足取りだ。なぜかといえば、まさしく「好きこそものの上手なれ」「天は自ら助くるものを助く」を体現した生涯だからだ。1800年代前半の英国は世界の覇権国で、第1次産業革命を経て、蒸気機関車が普及し始めた鉄道狂時代にあった。とはいえ、ファラデーは貴族階級や富裕層の生まれではなく、製本職人の丁稚奉公をしながら、その本で学ぶ少年期を過ごしている。しかし、好きで学んで考える姿勢であるため、持ち前の才能もあったろうが、吸収速度も理解の深さも桁違いだったに違いない。

 長い職人修行で磨いた技量や創意工夫、デザインセンスもしっかりと役立てている。1812年、20歳前後のファラデーは製本屋の顧客からハンフリー・デービー卿(1778〜1829年)の講話のチケットを譲り受けた機会を活かし、その内容を数百ページにわたり、しっかり記録、製本し、デービーに送っている。感心したデービーにファラデーは弟子入りし、自然哲学者の道を歩み始めることができた。デービーは当時、最先端の科学機器だったボルタ電池(1800年に発明)を電気分解に応用し、少なくとも3種類の元素(Na、K、Ca)を世界初で発見したことで一世を風靡していたスター研究者だ。元素の発見の先着順には諸説があり、判定が難しい。しかし世界初での元素の単離に成功とすれば、デービーにはさらにもう3種類の元素(Ba、Sr、Mg)の名誉が加わる。そんなデービーだが、最大の発見はファラデーを見つけたことだと言い遺したと伝わっている。

 研究者としてのファラデーの業績は現代の学問区分で物理と化学にまたがっている。とりわけ電気に関わる業績が多い。特に電磁誘導の発見(1831年)は発電機に、電気回転機の発明(1821年)はモーター(電動機)につながっている。電気分解の法則(1833〜1834年)は金属メッキやアルミニウム精錬の基礎を据えるもので、ベンゼンの発見(1825年)は現代の化学産業につながっていく。硫化銀の電気抵抗率の温度特性が金属・絶縁体と逆の振る舞いを示すことの計測(1839年)は最初の半導体の発見と振り返られる。彼の基礎研究がその後の科学・技術史にもたらした貢献の重要性を眺めるのは楽しい時間だ。

 そのほかにも、場の概念と電気力線・磁力線の提唱、統一理論の先駆にあたる学術的な業績がある。一般向けにも、さまざまな化学分析への協力などを精力的に行っている。

背中で後進を育てた紳士

 基礎研究が身近な生活の役に立たないという批判を浴びた時の反駁(はんばく)として、「生まれたばかりの赤ん坊が将来何の役に立つのか一体誰がわかるでしょう?」という言葉が現代日本にも残されている。この含蓄ある言葉の出所として、「ろうそくの科学」ほどの確実な記録文献が見つからない。ファラデーが電磁誘導を実演した講話で、貴婦人から「磁石を動かすと電気が流れることは分かりましたが、それが何の役に立つのでしょう」と無邪気な質問を受けた際の台詞という説が有力だ。筆者の調べた範囲では、ベンジャミン・フランクリン(1706〜1790年)がさらに古くこの比喩表現を用いているが、機転のきいた言い回しをファラデーはお洒落に引用していたのかもしれない。類似の質問を政治家から受けた際には「閣下は将来この電気に税金をかけるようになるでしょう」とファラデーが答えたという伝聞もある。

 その赤ん坊は時間がかかったけれどもよく育って、税金が本当にかけられるようになった、というのが現在を知る我々の答えだ。当時の人々からすれば、そんな将来の話は予測できなかったし、悪意は無かったので恐れ入りました、といったところだろう。

 ファラデーにしても、フランクリンにしても、すべての仕事が百発百中ではなく、成功の陰には多くの試行錯誤があったこともしっかりと記録に残している。ただ、電磁誘導や避雷針といった科学・技術史に刻まれる金字塔の仕事については、偉人たちには将来の発展が見えていたのだろう。歴史の答えを知る我々としては、無責任に放言して後代に恥をかくよりも、ファラデーやフランクリンの真意を理解して後進を育てる姿勢に近づきたいものだ。

 さて、電磁誘導が発電のために実用技術となり社会普及に至るためには、ファラデーの科学的発見だけでなく、その後に続いた技術開発・社会実装の貢献をもちろん軽視してはならない。

 まずファラデーの業績を学んだ有名なイノベーターの逸話を紹介したい。

 1867年から1868年、日本は江戸から明治に変わったころ、アメリカの五大湖の畔で働いていた20歳前後の通信技師が、ふとしたきっかけでファラデーの実験ノートをまとめた「電気の実験研究」を入手したそうだ。志半ばで当時、陰鬱な気分で過ごしていた若き通信技師は、この本にいたく感動し、友人に「私は50歳まで生きられるかもしれない。しかし、ファラデーに近づくには時間が足りない。急がないといけない」と語ったと伝わる。この青年こそ、後の発明王トーマス・エジソン(1847〜1931年)だ。エジソンも小学校を退学した、常識の範囲に収まらない少年期を過ごしている。エジソンの独学と創意工夫による学び方もファラデーの丁稚奉公時代の学び方に通じるものがある。もしかすると、そのような共通点に共感を抱き、その後の電気文明を実現する原動力となったのかもしれない。そのような系譜をたどると、エジソンが、発電所を建設して、照明をろうそくから白熱電球に置き換えていき、大火事の心配を無くしたイノベーションも重層的に感慨深く感じる。

 次に、ファラデーを源流にもつ科学・技術・イノベーションのもう1つの大きな流れを紹介したい。

 少し専門的になるが、電磁気学がもたらした果実だ。大学で物理関係のコースに進まないとおそらく耳にしない内容だが、理論と実験と事業化が紡ぎあって、異次元のパラダイムに世界をシフトさせた科学・技術・イノベーション史は愉快痛快だ。

 ファラデーは電気と磁気の相互作用の実験から場の概念、電気力線の概念を構築した。その概念を真っ先に理解した数学の天才ジェームス・クラーク・マクスウェル(1831〜1879年)は数式化に取り組み、「ファラデーの電気力線について(On Faraday’s Lines of Force)」(1855年)を24歳で第1論文として執筆した。マクスウェルはファラデーに論文を送り、励ましの返事も得て力付けられ、さらに数式解析を進め、「電磁場の動力学的理論」(1864年)で電磁波の「理論予言」にまで到達する。

 マクスウェルの極めて難解な論文を理解したドイツの若きハインリヒ・ヘルツ(1857〜1894年)が検証実験に挑み、数メートル単位だが電波の発信・受信に成功した(1888年)。ヘルツの業績を学んだイタリアの若き発明家・事業家グリエルモ・マルコーニ(1874〜1937年)が当時不可能と考えられていた大西洋横断の無線通信に挑戦し、とうとう成功した(1901年)。今の通信技術や衛星観測の幕開けだが、中身の難しさを除けば、このようなドキドキワクワクの連続から無線通信技術は生まれている。

ファラデーに関係する科学・技術・イノベーションの発展史。コンセントの電気や通信、PC、化学繊維衣料などはいずれもファラデーの基礎研究の発見を上流にもつ。現代日本の生活は、その後に続く発見、発明、事業化の大変な投資や苦労から生まれた恩恵を享受している。
ファラデーに関係する科学・技術・イノベーションの発展史。コンセントの電気や通信、PC、化学繊維衣料などはいずれもファラデーの基礎研究の発見を上流にもつ。現代日本の生活は、その後に続く発見、発明、事業化の大変な投資や苦労から生まれた恩恵を享受している。

明かりの灯し方を学ぶ

 ファラデーやエジソンたちの少年期の学び方について、19世紀は現在ほどしっかりとした国民皆教育や学校制度が整備されておらず、現在の日本は当時の英国、米国よりもはるかに恵まれた良い学習環境になっている。しかし、成人してからは講義や講話だけでなく、読書から学ぶ機会も多くなる。子どもであっても大人であっても、ファラデーやエジソンの学び方を表面的にだけ真似しても、史上最高の実験科学者や発明王の水準に到達するのは困難だ。ただし、「読書尚友」(※)の良い実践として、古今東西に通じる逸話だ。

※ 読書尚友とは、孟子(生年不詳〜紀元前289年)の一説に語源をもつ故事成語。孔子(紀元前552〜479年)の没後に生まれた孟子は、孔子から直接教えを受けることはかなわなかったが、孔子の学説や時代背景を徹底的に学び、まるで生きた朋友と会話するように孔子の書物が理解できる境地に至ったという一説から派生。

 ファラデーたちの遠い後輩にあたる誠実な研究者の論文や随筆などを読むときには、読書尚友の境地にいたって、執筆者の思考を理解できるようにありたいと思う。また、自らが何かを書くときには、そのくらいの読み方をしてくれる読者がいるという感謝の念を抱くと同時に、不誠実に無責任なことを書いてはいけないと思う。すぐに増長しがちな私でも、ファラデーたちを思い出すと、ファラデー並みの仕事はできなくても、その真摯さは見習って模倣しなければいけないと自戒できる。

 疲れた時に、「ろうそくの科学」を読み返すと、「初心忘るべからず」とファラデーが諭してくれるように感じ、科学・技術・イノベーションの明かりを灯す一助となるための元気が湧いてくる。

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