ちょっと前になるが、日本記者クラブ主催の研究会で、山田健太・専修大学准教授が東日本大震災発生後1カ月間の各新聞報道を比較するという興味深い講演をした。全国紙、ブロック紙、県紙10数紙の1面トップにどのような記事が載ったか、を示すグラフが分かりやすい。被災地から離れるほど被災報道がトップ記事になる比率が小さくなる。これは、日ごろ国内と海外ニュースの扱いを見ていれば納得する人も多いだろう。興味深いのは全国・都内紙だけに限っても明確な違いが見られたという指摘だ。読売、朝日、毎日の3紙を比較すると、「政治ネタとして扱った記事」(読売)、「原発、放射能についての科学的記事」(朝日)、「被災地・被災者に関する記事」(毎日)が多いという各紙の特徴があるという。
また、一読者としてみた場合、読みやすい記事を多く載せていたのは産経と東京の両紙だった、と山田氏は言っている。両紙は、計画停電の話など東京の読者に向けた紙面を作っており、産経は「すっきり」、東京は「なっとく」という感じの記事が多かったという。東京新聞がなぜ「なっとく」と感じられたかについて氏は、例えば原子力発電にかかわる行政機関、電力会社、大学などの人々が「原子力村」という特別の世界をつくっているという記事を地震発生の3日後に早々と掲載していたことなどを挙げている。政府や東京電力などの発表に対し、「『本当かよ』という反応から、さらには『本当じゃないよ』と言うような記事が多かった」というわけだ。
これも氏の言う東京新聞らしい記事といえるだろうか。10日朝刊の「こちら特報部」面に「『地下原発』は菅降ろし? 『族議員の生き残り策』」という記事が載っている。5月31日に発足した超党派による「地下式原子力発電所政策推進議連」の狙いがどこにあるかを探った記事だ。
この議連の母体は、1991年にできた「地下原子力発電所研究議員懇談会」。当時、自民党員だった平沼赳夫・現たちあがれ日本代表ら自民党有志が結成した。この時は、危険だから地下に造るのかと一般に受け止められることを電力会社が恐れ、電力会社から協力は得られなかったそうだ。今回の議連は、平沼氏が会長を務めるほか、顧問として民主党から鳩山由紀夫・前首相、羽田孜・前首相、石井一・副代表、渡部恒三・最高顧問、自民党から谷垣禎一・総裁、森喜朗・前首相、安倍晋三・元首相、山本有二・元金融担当相、国民新党から亀井静香・代表の9人が名を連ねている、という。
記事自体は決め付けていないが、NPO法人代表や政治評論家のコメントを紹介する形で、議連発足が、原子力に携わってきた企業と族議員の生き残りや政界再編を視野に入れた行動であることをにおわせた記事になっている。
西岡参院議長に退陣勧告を突きつけられるなど、菅首相が四面楚歌の状況に追い込まれている、と感じる人は多いだろう。しかし、政界の外にいる人間、とりわけ一般の国民には首をひねる人も多いのではないだろうか。「首相としての能力、度量だけを問われるとしたら、菅氏が特にひどいと言えるのだろうか」と。
メルマガ「田中良太の目覚まし時計」を配信している元毎日新聞記者の田中良太氏は、9日配信の記事で3日に「こちら特報部」面に載った別の記事「菅降ろしに原発の影 与野党に『電力人脈』」を取り上げている。
「こちら特報部」の記事は、民主党が電力会社の労働組合である電力総連の支援を受けており、東京電力労組、関西電力労組出身の参院議員を身内に抱えていることや、一方の自民党も元東京電力副社長が昨年まで参院議員だったなど電力会社とは長年蜜月関係にあることなどを挙げて、「菅首相はこの国の禁忌に触れたのではないか」と書いている。
田中良太氏は、1954年に中曽根康弘・元首相が主導的役割を果たして原子力開発の予算を初めてつけた際に、社会党左右両派の議員も協力した事実、さらに翌55年に「55年体制」(保守合同で自由民主党、右派・左派社会党が統一し日本社会党が誕生)ができた事実を挙げて、次のように指摘している。
「55年体制を誕生させたのは、中曽根主導の『原子力予算』だったともいえる。55年体制は『原子力政策』から誕生した。菅直人が『原子力』という地雷を踏んだからこそ、『菅降ろし』が政界を支配したといえるのではないか」
12日の東京新聞「こちら特報部」面の「本音のコラム」欄では、山口二郎・北海道大学教授が「誰のための政変か」と題して、次のように書いていた。
「6月5日、私は菅さんと1時間余り話をした。浜岡原発の停止を決定した後の様々な反発はすさまじかったという話が印象に残っている」