昨年創設された野口英世アフリカ賞(注)の第1回目の受賞者のひとりは英国人であった。ロンドン大学衛生熱帯医学校教授グリーンウッド博士(以下敬称略、ちなみにもうひとりはケニア人女性ウェレ教授)である。われわれの業界で「熱帯医学」と呼ぶ分野での受賞と理解してよい。
その授賞式におけるグリーンウッドの謝辞の出だしにいささか戸惑った。とは言っても、この戸惑いは、もし次に紹介する謝辞の一部を読むあなたに驚きがあったとしても、おそらくそれとは違う。
教授は謝辞を次のように始めた。
「43年前、若い医学生であった私は、…西ナイジェリアのイバダンにある…病院での仕事を始めるべく、初めてアフリカの地を踏みました。これは、当時としては相当変わった行動と受け止められました。…私の上司の何人かは、若い医学生がアフリカに行くとはもったいないことをする、あるいは医者として自殺行為に等しいと思ったようです(内閣府による仮訳、…は筆者による省略)」
43年前というと1965年、アフリカの独立機運が最も高揚し、英国も次々と領地を手放していた。とはいえ旧宗主国の威信はいまだ健在、英国人のグリーンウッドが比較的簡単にアフリカに渡ることができたことが容易に想像できる。しかしそれが「当時としては相当変わった行動と受け止められ」とは一体どういうことか。勇気ある若者の行動にそのような評価を下す訳知りはいつの世にも居る。いまでもよくある話だ。これに驚いたわけではない。
面食らったのは、これが英国でのエピソードだという点である。英国は熱帯医学のメッカ。日本のことならいざ知らず、その英国においてすら当時は「熱帯医学」は変わり者、物好きのやることと信じられていたらしい。
事ほど左様に「熱帯医学」は医学の多々ある分野の中でもマイナー中のマイナーである。
そのマイナーな熱帯医学を研究教育活動の中心に置く長崎大学熱帯医学研究所(熱研)が、熱帯感染症(熱帯病)研究のために、ケニアに活動の基地を構えて4年目が終わろうとしている。当面5年間の時限プロジェクトとはいえ、文科省下の国立大学法人が、海外にしかも途上国に、独自の研究活動基地(拠点)を持った、マイナーな熱帯病研究分野のために。異例のことと言わねばならない。
熱研の活動基地は「長崎大学ケニアプロジェクト拠点」と呼ばれ、現在、研究者5人とひとりの事務担当職員が常駐している。首都ナイロビのKEMRI(ケニア中央医学研究所)内に設置した病原体高度実験施設を含む実験室(その一部がコンテナハウスであるのは愛嬌だが)と地方のフィールドを往復しながらの研究と教育の毎日である。Armchair tropical medicineでは困難な活動を精力的に続けている。
国立大学法人化以降、海外に特に途上国に研究教育拠点を置く大学が増えた。しかし、「長崎大学ケニアプロジェクト拠点」の構築は、そもそも熱研の半世紀の夢であった。
そのこころは、熱帯病研究教育のためには熱帯の現場に研究の「場」が不可欠、この一点につきる。日本人研究者が現地研究者と共に、「長期間」しかも「継続的」に広範囲の調査研究を心置きなく行うことのできる「場」、その存在があって初めて、若きグリーンウッドのように熱帯医学を志す若手研究者が育ち、成果を現地住民へ還元することもできる、と常に考えてきた。
熱帯病は文字通り「熱帯」という独特な自然環境下にある。そのため生態学的研究は欠かせない。マラリアはハマダラカという蚊の挙動が感染の鍵を握っており、その研究は現場の長期間継続的な観察がなければ不可能である。また現場では、地域の貧困、社会の特質など考慮すべきことも多い。現実社会では熱帯病は人々の日々の生活の上に存在する。熱帯の暮らしを肌で感じ、社会の構造や文化にも目を向ける。これもまた現場の長期間の継続的な観察を必要とする課題である。
熱帯の現場で研究と教育が可能な「場」、その夢が実現した。
グリーンウッドがアフリカを目指したのは1960年代。ちょうどそのころ長崎大学の先達たちもまた同じ志を持って初めてアフリカに渡った(筆者のアフリカ行きは先輩諸氏に遅れること10年の1975年)。彼らもまた、世間からは奇異の目で見られた者たちであっただろう。それから40年、諸先輩や私の活動は、場所は違ってもその後グリーンウッドがアフリカで活躍した時期におよそ一致する。
グリーンウッドの並外れた努力と研鑽(けんさん)をわれわれのそれと比較するつもりは毛頭無い。比較すること自体おこがましいと思ったりもする。しかし正直なところ、彼らとわれわれが40年後たどり着いた地平を見る時、その彼我の違いに愕然(がくぜん)とする。グリーンウッドは、殺虫剤を染み込ませた蚊帳によるマラリア制御の効用を現場で証明して見せ、現在の世界におけるマラリア予防の最重要対策にまで押し上げ、野口英世アフリカ賞を受賞した。その間にわれわれは何を創り得たか? 筆者個人の能力は棚に上げるとしても、日本人研究者の能力や努力に違いがあるとはとても思えない。それでも結果として残る歴然とした差。
この差のゆえんは、陳腐な表現で悔しいけれども、熱帯医学研究における英国の伝統。そう言わざるを得ない。ただ、伝統といってもここでは精神的なあり方を言うのではない。その伝統のもとに実体として存在する熱帯現場の「研究基地」のことである。グリーンウッドの研究は、強靭(きょうじん)な精神と現場体験、長い時間をかけて現場で培った経験と勘に裏付けられている。それを保証したのは英国の半世紀以上の伝統を持つ現場の研究基地ではなかっただろうか。
あらためてグリーンウッドを見るまでもなく、熱帯病が蔓延(まんえん)する現場に置く教育研究の「場」の存在こそが熱帯医学の総合科学としての発展を促進すると、われわれは信じてきた。そして、遅ればせながら、「長崎大学ケニアプロジェクト拠点」がその第一歩として実現した。英国に遅れて半世紀、アフリカの現場に登場するわれわれに、現場研究のより一層の飛躍が求められている。
現場研究についてグリーンウッドは何と述べているだろうか? 彼の謝辞に戻ろう。
「本賞の背景にある考え方は、しばしば学問的厳密さに欠けると見られがちであった『応用』あるいは『フィールド』の研究が、これまで多くの国際賞を惹きつけてきたハイテクの実験室の研究と同等に、知的に厳密でかつ高い水準が要求されることを明らかにした点であり、これは非常に重要な考え方であります(内閣府による仮訳)」
わが意を得たり。現場研究の価値と質を問うたわれわれにはうれしい意見である。
別の機会に彼はまた筆者に語った。「研究に基礎や応用の区別はありません。あるのは良い研究と悪い研究だけです」
良き研究を、現場で、成功させること、これが現場に活動の「場」海外研究拠点を得た今もう逃げ場のない熱帯医学者の今後の課題である。
40年来の夢、長崎大学のケニア研究教育拠点の実現を後押ししたのは、何と言っても、過去10年来の感染症やアフリカに対する国際的な関心の高まりであった。熱帯感染症を、WHO(世界保健機関)が公に「無視され顧みられない熱帯の病気」(Neglected Tropical Diseases: NTDs)と言い換えたおかげで、熱帯病が少しでも顧みられることになったのは皮肉と言うしかないが、熱帯病は近年、地球規模の課題のひとつと認識されている。熱帯病は、ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)で主要な課題とされ、昨年の洞爺湖サミットでは行動指針のひとつにNTDsが取り上げられるまでになった。
途上国における海外研究拠点が行う研究は、このような実社会の動きに呼応しつつ、科学者の誰もが持つ夢、「新しい知の発見とそれが直接間接にもたらす社会の変化」を実現することである。現場に置いた研究の「場」で、生きる人間の住む現実の複雑さへの謙虚な態度に裏打ちされた科学者の夢が、うまく現実社会の希望に触れる時、そこに良い研究が生まれる。
今回の拠点実現は、40年来の先人の努力の上に、さまざまな方々のご支援なくしては有り得なかった。日本では、熱帯医学会をはじめとする多くの感染症関連学会、文科省、日本学術振興会、外務省、国際協力機構(JICA)、大学教職員のみなさま、オールジャパン体制による科学技術国際協力を垣間見る思いであった。ケニアでは、KEMRIを中心に、保健省、外務省、財務省の方々にお世話になった。この場を借りて心から感謝を申し上げたい。
生まれたばかりの長崎大学のケニア研究教育拠点だが、5年のプロジェクトを通して期待に応えるべく良き研究を続けていきたい。本拠点を全国共同利用として活用する準備も始めている。その先に、いつか、この拠点が日本の、そしてアフリカの、否世界中の学生、研究者の集う「場」となり、その輪の中から野口英世アフリカ賞の受賞者が生まれることを祈りつつ。
(注)
野口英世アフリカ賞: 小泉元首相の発案で創設された。アフリカでの感染症などの疾病対策の推進に資し、人類の繁栄と世界の平和に貢献することを目的として、5年ごとに開催されるアフリカ開発会議(TICAD)の場で授与される受賞者にはそれぞれ賞金1億円が贈られる。
嶋田雅曉(しまだ まさあき) 氏のプロフィール
1948年広島県生まれ。1974年長崎大学医学部卒、78年長崎大学大学院医学研究科博士課程単位取得退学、長崎大学熱帯医学研究所助手。同講師、産業医科大学教授を経て、97年長崎大学熱帯医学研究所教授、2005年アジア・アフリカ感染症研究施設ケニアプロジェクト拠点創設とともに拠点長兼務に。専門は寄生虫学疫学、熱帯病生態疫学(熱帯病と生活文化の関係の解明)。医学博士。ケニアを拠点として感染症対策にかかわる国際研究交流を推進した業績に対し、科学技術政策研究所の「2008年ナイスステップな研究者」の1人に選ばれた。