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モニタリングという呪縛(小長谷有紀 氏 / 国立民族学博物館 研究戦略センター 教授)

2007.08.07

小長谷有紀 氏 / 国立民族学博物館 研究戦略センター 教授

国立民族学博物館 研究戦略センター 教授 小長谷有紀 氏 氏
小長谷有紀 氏

 私はもともとモンゴル高原を対象として、動物と人間の関係史を捉えるという視点から研究を続けてきた。その過程で、遊牧という生活様式が、生産方式としては当該の乾燥地にうまく適合していることを理解するようになった。しかし、じつは遊牧はかつて、地域開発や行政管理という観点から遅れたものとして、大いに否定されてきたのだった。偏見が確立されていたと言ってもよいだろう。

 時代はめぐり、環境保全を地球規模で考えるべき今日に至ってもなお、旧来の思想を維持している人びとは、遊牧をあいかわらず原始的な生業として否定し続けてしまう。そして、いち早く有効性に気づいた人たちが遊牧を強調すればするほど、それをロマンティシズムとして一蹴してしまう。

 そこで、期待されるのが自然科学である。主義主張ではなく、データでもって、客観的に、是非を提示することができると一般に信じられているから。目に見える発展や厳格な管理が好きな人ほど、実は過去の偏見に絡めとられているのだが、自分自身では主義主張にのっとっているとは思ってもいないので、主義主張とは遠いとされる、客観的数値による証明だけが、そうした偏見を変更せしめるうえで有効な手段となるのである。

 ところが、この強力な武器であるところの客観的データなるものが容易に得られるわけではない。何年経っても「ただいまモニタリングしています」という答えが返ってくる。実際に、乾燥地域の自然環境を短いタームのデータで示すことは避けるべきだし、気象が変動しつつある現在はよりいっそう慎重を期すべきことも理解できる。しかし、それではいつになったらモニタリングは終わるのであろうか。そう問われかねない今日のご時勢だ。必要であるにもかかわらず、必要性を訴えるのが難しい、そんな呪縛をモニタリングは抱えているように見える。

 実は私たち文化人類学の研究者も、自然科学の研究者と同様にモニタリングに従事している。民族誌は、時間と空間と対象となる人びとを限定した、モニタリングの成果であると言ってもよいだろう。ただし、少し異なるだろうと思われるのは、方法論が無数にあり、それゆえに結果は無限大にありうるという点である。たとえ同じ時空であっても、調査者によって聞き出せることは異なる。調査手法はスキル(技術)というよりもむしろアート(芸)であるから、モニタリング結果は同じにはならない。そこで、ありとあらゆるモニタリングがそれぞれ固有の価値を持って提示されることになる。明日になったら昨日のことはわからなくなるものだ、という真理が納得されているからかもしれない。今日のことを丹念に記録しておくことはそれだけで十分に評価に値するとされる。もっとも、それだけでは、理論的な貢献が少ないと非難されることはあるが。

 そんな人文系モニタリングのツボを使って、自然科学におけるモニタリングを言い換えてみたらどうだろうか、「地球誌の記述です」と。今日このときの様態を、現在可能な最大限の詳細さで記述しておくのです、と主張し、どのように使うかは未来の地球人にも開かれています、と誇張してみたらどうだろうか。そんなふうに言い換えているうちに、モニタリングも実は100%スキルではなくてアートに依存する部分、すなわち誰がどうモニタリングするかによって異なることの価値も見出され、評価されるようになるかもしれない。オリジナリティはモニタリングにだってきっと潜んでいるだろうから。

 モニタリングの呪縛を解くために、すべてのモニタリング行為にオリジナリティと同時に限界の備わっていることを承知している人文系研究者と、一度対話してみてください。

国立民族学博物館 研究戦略センター 教授 小長谷有紀 氏 氏
小長谷有紀 氏
(こながや ゆき)

小長谷有紀(こながや ゆき)氏のプロフィール
1981年京都大学文学部史学科卒、86年京都大学大学院博士課程満期退学、93年国立民族学博物館助教授、2003年同民族社会研究部教授、04年から現職、05年から総合研究大学院大学地域文化学専攻長を併任、モンゴルを研究対象に『モンゴルの二十世紀―社会主義を生きた人びとの証言』(中央公論新社)など著書も多数。NPO法人「モンゴルパートナーシップ研究所」理事も

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