インタビュー

「模型が教える 巨大津波からの身の守り方」 第1回「出前授業の生徒は 津波被害者ゼロ」(山野目弘 氏 / 岩手県立宮古工業高校 機械科実習教諭)

2016.03.09

山野目弘 氏 / 岩手県立宮古工業高校 機械科実習教諭

山野目弘 氏
山野目弘 氏

東日本大震災からまる5年になる。巨大津波災害に度々遭遇してきた東北・三陸海岸の一角、岩手県宮古市の県立宮古工業高校が独自の精巧な津波模型を手作りし、これまで100回を超える各地の実演会や学校への出前授業を実施してきた。いずれも評判が良く、震災前にこの授業を受けた児童・生徒の津波犠牲者は1人も出さなかったという。日本水大賞、防災コンクールなどでの輝かしい受賞歴も多い。南海地震が想定される四国・徳島県や関西方面からも実演依頼の熱い声がかかる。巨大津波の痛ましい経験の記憶をどう伝え、次にどう備えることができるのか。指導に当たった機械科実習教諭の山野目弘氏に話を聞いた。

―昨年7月の日本水大賞(第17回、日本水大賞委員会と国土交通省の主催)ではグランプリに輝き、宇宙飛行士の毛利衛委員長から賞状を手渡されました。

 機械科津波模型班の生徒2人が代表して受賞しましたが、とても喜んでいました。宇宙飛行士から手渡されて、生徒はまるで宙に浮いたように上気していました。これまで12年間の活動でたくさん受賞し、表彰も受けてきましたが、日本水大賞は格別大きな賞です。名誉総裁の秋篠宮・同妃両殿下の前では、生徒だけでなく私も緊張しました。水環境や治水、水防災関連では最大の表彰制度だけに、苦労が報われた思いです。

―津波模型とはどんな物を作ったのですか。

 タタミ2枚ほどの大きさのパネル板の上に、宮古市など三陸沿岸の町並みを再現した立体模型です。簡単なように見えますが製作には非常に手間がかかります。国土地理院の2万5,000分の1の地図を30枚近くもベニヤ板にはり、等高線に沿って精巧に切り抜きます。その切り抜きを細かく積み重ねて山や堤防、川などを作ります。

 大きなベニヤ板を切るには5、6時間もかかります。表面をヤスリがけし、紙粘土で覆って滑らかにし、ペンキとポリエステル樹脂を塗布して水漏れ防止をかけるのです。パネル板の海側の上部に乗せる津波発生装置のタンク作りは、機械科ならではの専門技術が必要で、硬い鋼材やアルミ板を旋盤とフライス盤で切断し、曲面加工はCAD(コンピューター支援設計技術)を使って自動工作機械で金属加工します。

 湾の海底の形状は海上保安庁発行の海底地形図を基にきちんと作りました。津波発生装置の水槽のボタンを押すと、水が一気に落下して疑似的な津波として大きな波が陸地に押し寄せるという仕掛けです。どれも手が込んでいるので完成までにほぼ1年近く費やします。模型そのものは3年生が卒業までに完成させ、それを受け継いで後輩が実演会を行うことを伝統にしています。

写真.山野目先生(右)の指導で、製作した津波模型を前に、実演会の練習をする生徒。
写真.山野目先生(右)の指導で、製作した津波模型を前に、実演会の練習をする生徒。
写真.東日本大震災では、指を指している赤いラインまで津波が遡上した。
写真.東日本大震災では、指を指している赤いラインまで津波が遡上した。

―ずいぶん正確に作られていますが、その意図はどこにあるのですか。

 海底や湾の形状なんて誰も知りません。でもこの形状が、津波の起こりやすさや波高に影響し、被害状況にも大きく関わるからです。もうひとつは、街中の道路や家並み、防潮堤の位置や高さを正確にすると、津波がどう乗り越えていったか、引き波がどう動き、街の中で浸水に弱く水浸しになる地域がどこなのかが正確に把握できるのです。

―なるほど、そこまで再現できるとはすごく現実感がありますね。

 津波が襲ってきたときに、高いビルや山に速やかに逃げられるように、避難経路を黄色のラインで書き込みました。自分の家や学校からどのように逃げればいいかを、子供たちには頭に入れて貰うようにします。東日本大震災で冠水した境界は赤線で示して、ここまで水が来たと分かるようにしました。

 模型で流す水が透明では見にくいので、あえて赤紫色に着色しました。実演をしながら避難方法などを3年生に説明させ、見学者には目と耳の両面から津波の怖さを知ってもらえるようにしたのです。並行して別の生徒たちが明治三陸津波(1896年)や昭和三陸津波(1933年)の被害のようすを、当時の写真を使って説明しています。

―実演での小、中学生たちの反応は。

 勝手知った街の模型なので、パネルを囲んでみんなが食い入るように見つめます。津波を起こすと、「あっ、学校がやられた」「僕の家も…」と真剣です。「怖かった」と手に汗をかいていた子もいました。

 こうして震災前のイベントは全国で60回以上に及びました。市内の小、中学校15校では23回にわたって実演しましたが、生徒の犠牲者を1人も出しませんでした。そのことをそれぞれの学校の先生から聞いて、私自身が驚いたほどです。現実感のある実演の影響力は決して小さくはありません。こうした実演の記憶がはっきりと残っていたために、先生方の誘導で全員が速やかに避難できたのですね。役に立ったことが何よりもうれしいです。

―生徒たちの無事は偶然ではなく、実演の効果が大きかったわけですね。どんな点に意味があったとお考えですか。

 必ず小さい津波と大きな津波の二つの津波を作ります。まず小さい津波では、海岸防潮堤が食い止めたり、越流を遅らせたりする効果が見えます。これは防潮堤の果たす一定の役割ですが、巨大防潮堤があると住民はついついそれに頼って安心してしまうものです。しかし大津波の前には、どんな大きな防潮堤だってひとたまりもありません。

 実際に宮古市の田老地区では、海の「万里の長城」と呼ばれた高さ10メートルの巨大防潮堤が26キロにわたって造られていましたが、津波がやすやすと乗り越えて中心部はほぼ全滅しました。いま壊れたり、沈下したりした防潮堤の復旧工事中です。防災で肝心なのは頑丈なハード対策だけでなく、むしろ賢いソフトウエア対策が必要なのですね。

 出前授業では、「万が一、こんな大津波が来たら、どうしたらいいだろう」と生徒たちに問いかけます。みんなの関心を引き出すように議論し、最後の結論は「とにかく避難路をたどって早く逃げなさい」と教えるようにしています。

写真.田老地区で工事中の水門。
写真.田老地区で工事中の水門。

―模型を使って疑似体験をして覚えておけば、逃げ場所を迷わずにすむわけですね。

 子供でもお年寄りでも、模型で見るとどこが危険なのかが一目瞭然です。ことわざ通り「百聞は一見にしかず」で、そこに疑似体験の効果があるのです。

―あの3.11から5年目を迎えます。各地で防災訓練が行われています。東日本大震災のつらい経験を踏まえて、これからどんな心構えが必要でしょうか。

 防災は、口先の呼びかけや単なる座学で身につくものではありません。現実味のある訓練を続けるとか、精巧な模型を作ってさまざまなシミュレーションを繰り返してみるなどの疑似体験が必要でしょう。つまり防災とは、それぞれが住む「街の弱点」を知ると同時に、「自分の弱点」をも正しく認識し、それに備えて具体的な対策を執ることなのです。

 さらに必要なことはみんなで何度も繰り返し確認し、伝え続けることです。人は忘れやすい生き物ですし、まさか自分のところには津波は襲来しないだろうと、誰もが根拠のない思い込みをしています。不都合な事態は考えたくないものなのです。

―その心理は、正常化の偏見といわれるものですね。

 そうですね。絶対安全というものはないですから、まずは逃げることです。逃げ方、逃げる目標、避難路を、平常時からはっきりとイメージして訓練することです。

 地元の人が、明治三陸津波の体験を基に「津波てんでんこ」と言い伝え、他人のことは構わず自分独りでも逃げろと教えたのは、とても悲しくて、大切な意味があったのです。この言葉は、後年、津波史研究家による造語だとの説もありますが、ただそのような意味のことを地元の人たちが昔から言い伝えていたことは、当然あったでしょう。

 この津波では北海道から宮城県まで2万1,959人の犠牲者がありました。その8割以上がなんと岩手県(1万8,158人)だったのです。この地域は大家族の農漁村が多く、親子、兄弟姉妹、祖父母などが深い縁で結ばれていて、全員一緒に逃げようとして逃げきれなくなったために大悲劇につながったのです。犠牲者を少なくするには、厳しい言葉ですが、「他の人に構わず、とにかく自分だけでも逃げなさい」との教訓だったのです。

―昔の人の言い伝えには、計り知れない教訓が含まれていますね。

 2009年に宮古市重茂地区の漁港2カ所の模型を作るにあたって、私たちも昭和8年(1933年)の三陸津波を体験した語り部のお年寄りから話を聞き、生徒たちの問題意識を高めることをしました。

 3.11からはや5年になりますが、生徒たちはあのような恐ろしい実体験をしているにもかかわらず、正直言って、記憶が徐々に薄れ始めているような気がしていて心配です。なんとか手の打ちようがないものかと苦労しています。

(科学ジャーナリスト 浅羽 雅晴)

(続く)

山野目弘 氏
山野目弘 氏

山野目弘(やまのめ・ひろし)氏プロフィール
1952年生まれ。71年岩手県立釜石工業高卒。静岡県や岩手県の民間造船所で船体造りや設計を担当。86年県立宮古工業高の実習教諭に。

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