インタビュー

「大学はもっと元気を 政府に言うべきことはきちんと」 第1回「産学連携阻む日本版バイドール条項」(阿部博之 氏 / 元総合科学技術会議議員、元東北大学総長)

2016.01.05

阿部博之 氏 / 元総合科学技術会議議員、元東北大学総長

阿部博之 氏
阿部博之 氏

新規採用者千数百人のうち8割を外国人にするという総合電機メーカーの採用計画が話題になったのは5年前のことだ。「国内の理工系大学卒業生から優秀な人材が採れなくなっている」。既に1990年代から製造業大手各社の多くからそんな声が聞かれ始めたといわれる。1999年に「分数ができない大学生」を著して(共編)以来、高校の指導要領改訂と大学入試制度の変更などが大学生の基礎学力低下をもたらしている、と警鐘を鳴らし続けている西村和雄(にしむら かずお)神戸大学特命教授が、新たな調査結果を発表した。東証1部上場の製造業9社の20代若手技術者に「多くは高校で習う初歩的なレベル」という数学、理科基礎、物理の問題を出して答えてもらったところ、全問題の平均正解率が6割に達しなかった、という。日本の工学者・技術者教育は、大丈夫なのだろうか。総合科学技術会議(当時、現総合科学技術・イノベーション会議)の元議員で、現在も科学技術・学術政策への助言活動などを続ける阿部博之元東北大学総長に聞いた。

―先生は福島原発事故直後から、工学者が想定外と言うのはおかしいと批判しておられました。2015年の日本国際賞を受賞された河川工学者の高橋裕先生も日本の技術者教育に問題があるとみています。「日本の義務教育は大学の文学部と理学部の基礎教育をやっているとしか思えない。工学とは何か、技術とは何かを教えていない」と。先生は、工学者・技術者育成についてどのようにお考えでしょう。

 文学部と理学部主体の教育になっているということでは、旧制高校の教育がそうでした。旧制高校は帝国大学に入る予備的勉強をする教育機関として出発しています。明治9年(1876年)に東京医学校、現在の東京大学医学部の教師として招かれ、明治35年(1902年)に東京帝国大学を退官するまで教えたベルツのように、明治35年ころまで大学には外国人の教師が大勢いました。外国人の教師が多く、教科書も外国語となれば、帝国大学に入るための教育機関である旧制高校が外国語重視になるのは当然です。私が大学生だったころの年配の先生たちは、そうした旧制高校に加え、西欧などに留学して2年くらい研究生活を送ってから帰国し、教授になっていました。ですからドイツ語、英語の読解力は、私たち新制大学卒の世代に比べるとはるかに優れていました。

 というわけで、昔は帝大生として勉強するのに一番大事なのは外国語でした。旧制高校も外国語の時間が多く、外国語を教える先生は皆、文学部卒です。加えて基礎的な物理とか化学の授業もありましたから、文学部と理学部を出た教師で旧制高校のあらかたの授業はカバーされていたといえます。

―私も一応、工学部を出て通信社の記者になった時、不思議に思ったことがあります。なぜ社会のありようにほとんど関係のない、例えば恐竜の骨がどうしたとか、はるかかなたの天体がどうしたといった科学記事がこんなに多いのか、と。ひょっとしてこれも文学的、理学的教育重視の一つの表れでしょうか。

 科学記事は今でもそうではありませんか(笑い)。日本の工学教育を振り返ると、専門学校と大学という二つの流れがありました。東京工業大学は昭和4年(1929年)に東京高等工業学校から大学に昇格しましたが、昭和24年(1949年)の学制改革まで高等工業学校(後の工業専門学校〈旧制〉)と帝国大学の工学教育が並立していました。工学教育は、全国に有力な学校が五つあった高等工業学校が工業寄り、帝国大学が理科寄りだったようです。帝国大学の兄貴格である東京大学に当初、工学部はありません。工学部に相当する機関としては、工部大学校というのがありました。明治4年(1871年)に工部省に設置された工学寮が前身です。教師は、英国のグラスゴー大学から何人も招いています。グラスゴー大学というのは、蒸気機関の開発で有名なジェームズ・ワットが技術者として働いていた大学です。グラスゴー大学から招かれた教師たちは、英国式実務重視の教育とフランス、ドイツ式の理論重視の体系的教育をうまくかみ合わせた工学教育を行ったといわれています。

 明治18年(1885年)に工部省が廃止され農商務省となったのを機に、工部大学校は文部省の管轄下に入ります。翌年、帝国大学が発足した際、工部大学校は東京大学工芸学部と合併して帝国大学工科大学となります。つまり東京大学工学部には実務的、実践的な実地経験教育を重視していた工部大学校と、理論的、体系的な学術理論を重視する東京大学工芸学部という二つの源流があるということです。工芸学部は明治10年(1877年)の東京大学創設時からある理学部の一部を分割する形で、明治18年(1885年)につくられました。理学部の学風を相当程度受け継いでいたということでしょう。

―高橋裕先生は、東京大学でも千葉市にあった第二工学部(注1)の出身です。第二工学部は1942年に創設され、わずか9年しか存在しなかった学部ですが、こちらは工部大学校の教育を受け継いだといわれています。実際に、本郷にあった工学部とは雰囲気がまるで違っていた、と高橋先生はおっしゃっています。

 東北大学は、太平洋戦争中に米軍の空爆を受けました。軍事研究に力を入れていたから狙われたといわれています。東京大学工学部は当時、一部の先生を除くとあまり研究を重視していなかったようです。軍に対して知識を基にアドバイスをすることはあっても自ら研究に熱心でない。そんな教授が少なくなかったようです。司馬遼太郎が「東京大学は配電盤」といったことを書いています。欧米から輸入した文物を全国に配るのが主要な役目だった、というわけです。ただし、東京大学第二工学部は日中戦争のさなか技術者育成が急務という国家的要請の下につくられた学部です。本郷の工学部よりも実践的に研究をしていたのではないでしょうか。

 実際に、私が学生だったころの大学には論文をほとんど書かずに教授になった人がいました。今はそのような教授はいませんが(笑い)。太平洋戦争中は、中将の肩書きを持つ教授もいて、軍の研究所に呼ばれた時などは車に中将旗をつけて出かけたそうです。東北帝国大学にも東京帝国大学にもいました。

 東北帝国大学の大きな特徴は、最初に理学部からつくった帝国大学だということです。明治39年(1906年)に東北帝国大学の設立が閣議で決まった時、教授の人選を任されたのが、当時、東京帝国大学の教授だった物理学者の長岡半太郎(ながおか はんたろう)です。弟子である本多光太郎(ほんだ こうたろう)をはじめ優秀な若手を日本中から集めたため、途中で東京帝国大学の総長からストップをかけられたほどでした。長岡は欧州流の大学を仙台につくろうとしたのだと思います。東京帝国大学を反面教師にしたとも言えます。研究第一主義という東北大学の学風は、東北帝国大学設立までさかのぼります。

 東北帝国大学に工学部はなかなかできませんでした。しかし、KS鋼で有名な本多光太郎のように理学部でも実用面で産業界に貢献した人がいたというのが、東北帝国大学の大きな特徴です。物理、化学を基礎とする金属工学は、それまでの冶金学を別物に変えてしまいました。「理魂工才」という言葉が使われたように理学の素養がない工学は駄目という考え方が、大学設立以来、浸透しています。金属工学に対する企業の評価が高いのも、理学を重視したからです。このあたりは河川工学者である高橋先生が言われることと違うかもしれません。ちなみに東北帝国大学設立時に土木工学科はありませんでした。理魂工才に合わない学科とみなされたと思われます。

 旧制高校の授業の大半が文学部と理学部卒の教師によっていたというのは前に話した通りですが、ただし、全ての旧制高校が工学を軽視していたわけではありません。旧制二高(後の東北大学教養部)は、帝国大学工学部の先生が特別講義を行っていました。そうした先生に教えてもらったおかげで学者の道に進む決心をしたという人もいます。

―理学と工学を全く別物と見るのは適切ではないということでしょうか。

 東北大学に関して言えば、私が学生のころは、工学部ができた当時の教授たちが大体辞めており、設立時に学生でその後教授になった方たちが、そろそろ定年になろうかという時期に当たります。工学部設立時にはまだ大学になっていなかった東京高等工業(現 東京工業大学)や仙台高等工業などからも優秀な学生が入ってきました。そういう中から教授になって産学連携で大きな役割を果たした人たちも多かったのです。プロペラタービン、プロペラポンプの開発者として知られる沼地福三郎(ぬまち ふくさぶろう)もその一人です。流体力学の授業はアカデミックでしたが、一方で水力発電の現場で指導に当たることもしています。授業では、世の中にどう役だったかといった話や、教科書に載っていないような話をする先生も何人かいました。

 基礎的な学問を重視することと、産学連携により実用面で貢献することが、東北大学では両立していたのです。

―産学連携をうまく進めた大学もれば、そうでないところもあるということでしょうか。

 東京大学第二工学部は、戦争に協力した学部だと大学内で批判されて結局、廃部になったといわれていますが、似たようなことは随所に起きていたのではないでしょうか。例えば日本の数学界は太平洋戦争後、応用研究をやめてしまいました。今後、戦争に協力するようなことはやらない、と研究分野を抽象数学に限ってしまったそうです。15年くらい前から反省の機運も出ていますが…。昭和30年代の終わりからは、さらに産学連携を否定する動きが顕著になりました。学生たちから襲撃されかねないという緊迫した雰囲気もあり、産学連携が水面下に隠れてしまったのです。しかし、実際には教授たちはその後も産学連携を続けていました。修士論文など目に見えるところで産学連携の痕跡は消えてしまったとはいえ。

 むしろ、実際に産学連携がオープンでなくなってしまった今の状況の方が問題です。米国のバイドール法にならって、日本でも1999年に日本版バイドール条項(注2)ができ、そして国立大学の法人化(2004年)以降は、政府から研究委託された研究者の大学が特許権を取得することができるようになりました。研究成果の速やかな技術移転を促進するのが狙いだったのです。ところが逆に、これによって大学の持つノウハウが簡単に外に出せなくなってしまいました。それまでは大学の教授が企業に技術指導していけない、あるいはその報酬としてお金をもらってもいけないという制約はなかったのです。しかし日本版バイドール条項のために、「まず特許を取れ」という要請だけが強まり、かえって大学から企業に研究成果やノウハウを説明しにくくなってしまいました。そうだとすれば、明らかに行き過ぎとしか思えません。

 日本の企業は昔から大学の先生をうまく使ってきているのです。名古屋市にあるトヨタ産業技術記念館に行くと、トヨタの歴史が分かる実物を展示しています。トヨタ自動車の初代の指導教授、技術顧問7人の名前も表示されています。1人は東京美術学校(現 東京芸術大学)、3人が東京大学、2人が東北大学、1人が東京工業大学の教授たちで、この人たちがトヨタ自動車立ち上げの時にいろいろな助言をしたのです。今の指導教授は名前を公表していないでしょうが、大学の先生たちの指導を受けている企業はほかにも多数あります。中堅の上場企業も多くは水面下で指導を受けているはずです。

―日本版バイドール条項によってかえって産学連携が阻害されているという指摘は、これまで耳にしたことがありませんが。

 考えてみれば、すぐ分かることではないでしょうか。企業が10年後に市場に出せるかもしれない新製品を作るために必要な専門家を全て抱えているということはあり得ません。大学の先生をうまく使い指導や助言を受け、売り上げが確実に見込めるとなった時点で、製品化を目指し多数の社員を投入する、となるわけです。大学の先生がそっぽ向いたら大変なのです。日本版バイドール条項ができて以来の状況は、表向き「特許とれ」「産学連携やれ」と言いながら一方でブレーキかけているようなものです。大学の研究者が中心になって起業できるようなものは限られます。日本版バイドール条項は有用ですが、行き過ぎると硬直を招きます。大学が企業と一緒になって新製品を研究開発する道をきちんと残しておくことは必要なのです。

(注1)東京大学第二工学部:日華事変以後の急激な工業の発展と工学士の需要激増への対応という国家的要請により1942年に千葉市に設立された。1951年に閉学し東京大学生産技術研究所として再出発した。伝統的、アカデミックな雰囲気の工学部に対し、チャレンジ精神、進取の気性に富む雰囲気が特徴とされている。

(注2)日本版バイドール条項:1999年に産業活力再生特別措置法の30条に定められた内容を指す。日本でも米国と同様に政府から研究委託された研究開発から生じた特許を研究者や所属機関に帰属させることが可能になった。受託者が中心となって技術移転を促進するのが狙い。

(小岩井忠道)

(続く)

阿部博之 氏
阿部博之 氏

阿部博之(あべ ひろゆき) 氏プロフィール
1936年生まれ。宮城県仙台第二高校、59年東北大学工学部卒業。日本電気株式会社入社(62年まで)、67年東北大学大学院機械工学専攻博士課程修了、工学博士。77年東北大学教授、93年東北大学工学部長・工学研究科長。96年東北大学総長、2002年東北大学名誉教授。03年1月∼07年1月、総合科学技術会議議員。02年には知的財産戦略会議の座長を務め、「知的財産戦略大綱」をまとめる。現在、科学技術振興機構顧問。専門は機械工学、材料力学、固体力学。全米工学アカデミー外国人会員。

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