「統合医科学の定着目指し」

少子高齢化に伴い、健康法や医療に関心のある人が増えている。一方で、受け皿の医療の現場から聞こえてくるのは、恒常的な医師不足など医療従事者の疲弊や医療システム崩壊の懸念といった芳しくない声が多い。臨床医が日常の診療行為で手いっぱいという現実を裏付けるように、臨床医の研究論文数がめっきり減っている事実も指摘されている。外来、入院患者が多いことで知られる東京女子医科大学に昨年4月、基礎医学、臨床医学の統合により新しい予防、診断、治療法の開発を目標とする統合医科学研究所が開設された。同研究所が目指すものは何かを、三谷昌平所長に聞いた。
―先生は線虫の研究で有名ですが、統合医科学研究所でも線虫を使った研究は大きな位置を占めるのでしょうか。
統合医科学研究所で主として線虫を扱っているわけではなく、本務の基礎医学教室で研究に使っています。線虫の遺伝子の多くは、人間の遺伝子に非常に似ています。塩基配列上似ているだけではなく、線虫の遺伝子を壊して、壊したところに人間の遺伝子を入れてやると正常に戻ることも非常に頻繁にあるのです。人間で同じことをするのは倫理的な問題がありますから、こうした遺伝子改変は簡単にできません。しかし、線虫なら手軽にできます。われわれの研究室は4,300ぐらいの遺伝子の破壊株をつくっていまして、世界中に配っています。世界で行われている線虫の遺伝子破壊株を利用した研究の半分ぐらいがわれわれ東京女子医大提供の遺伝子破壊株を使っています。それによる研究論文も毎年百数十から200近くあり、しかもその1割くらいは「セル」と「ネイチャー」と「サイエンス」などビッグジャーナルに掲載されたものです。
―4,300種類もの線虫の遺伝子株を保有し、世界中に配っているというと手間も大変だと思いますが。
提供は文部科学省のプロジェクトでやっています。ウェブサイトで破壊株のデータベースを公開しており、それを見た人が「これください」と研究室に書類で依頼してくれば、すぐ送る仕組みで、手軽にだれでも使えるような形にしてあります。最初は米国、欧州が多かったのですが、最近は中国をはじめアジアも増えていますし、欧州でも東欧など生命科学の研究のレベルが高くなってきた国でも多くの研究者たちが使ってくれているみたいです。提供している研究室の数は、現在世界で1,000近くにもなっています。
線虫は、液体窒素とか超低温フリーザーで冷凍保存してあります。ですから停電が長く続くと困ります。全て二重電源にはできませんから、重要なセットは溶けにくい液体窒素に入れています。使用するときは溶かせば生き返ってきますし、提供して数が減った破壊株は溶かして増やします。
線虫の研究を始めたのは1989年に米国に留学した際、「線虫のゲノム解析が一番進んでいる」と教えられたのがきっかけです。実際に1998年に多細胞生物として初めて線虫の全ゲノムが解析されました。これは「サイエンス」の表紙になりました。線虫のゲノムの解読をやっていた人たちがそのままヒトゲノム解読に移り、2003年のヒトゲノム解読にかなり貢献した歴史があります。
私が留学した時は線虫の全ゲノム解析ができる前だったのですが、線虫のゲノム解読から線虫のゲノムに載っている遺伝子の機能が分かるようなアプローチを用意しておけば、線虫の遺伝子機能が網羅的に分かるだろうと考えました。ヒトゲノムに似たものがたくさんあるということはもう分かっていましたから、線虫の遺伝子機能を調べておけば、ヒトの遺伝子の機能というのも多分かなり分かるようになる。そうすると、病気の遺伝子が見つかったときに、それがどうして病気を起こすのかというのが理解できるようになるのではないかかというふうに考えたのです。当時はまだ遺伝病ぐらいしか考えてなかったのですが…。
帰国したころは、あまり医学と関係ないと思われた方が多かったのです。しかし、必ずこれは医学に役に立つアプローチだと信じて研究を続けた結果、最近になって多くの方が、遺伝子機能解析を研究手法の中に取り入れてくれ、世界中で成果がどんどん出るという状況に今はなっています。
線虫のよいところは、遺伝子導入がすごく楽にできることです。ガラス管微小電極みたいなものにDNAを詰めて、生殖腺に突き刺して注入すると、割と簡単につくれます。線虫の遺伝子破壊株に、アミノ酸が置換した遺伝子を導入して、果たしてどのくらい正常に戻るかという実験が簡単にできます。アミノ酸の変異も1種類に限らずヒトで分かったいろいろなアミノ酸変異を何種類も次々と試してみることもできます。同じような実験を高等動物でやろうとしたらトランスジェニック(遺伝子改変動物)を10種類でも大変な実験になってしまうのが、線虫なら一つの論文をまとめるための実験で20や30種類はごく普通に皆さんやっています。
線虫のいいところは、たくさんの遺伝子について解析でき、そのようにしてきた経緯がありますので、ありとあらゆる生命現象や、人間の病気にかかわる遺伝子を片っ端から調べるといった研究が可能なことです。特にこの分野だけということではなく、垣根を越えてどんどん横のつながりができるような研究システムを可能にする研究対象だと思っております。
―統合医科学研究所では、今後、線虫を利用した研究をどのように発展させる予定でしょう。
線虫を使った研究で、一番大事だと思っているのは、人間の病気で何かが分かってきたら、それを線虫に戻して研究し、その結果をまた人間の解析をしている方に戻せたら、ということです。今、私たちは糖尿病の疾患感受性遺伝子もやっていますが、学内に糖尿病の研究をされている方もいらっしゃるので、その方たちに研究成果を戻し、臨床分野の研究につなげていただきたいです。
ヒトの疾患ゲノム解析に戻りますが、もう一つ大事なことは薬理ゲノム学といわれる分野です。この患者さんにはこの薬がよく効きますよとか、この薬はやめたほうがいいですよ、といったアプローチはこれからどんどん必要になってきます。また、新しい薬が出てきた場合に、どうもこの患者さんにはよくなかったとか、これすごくよかったといった情報というのはその都度調べていかなければいけません。現在多くの研究者たちが力を入れている特定の疾患の感受性遺伝子を見つける研究というのは、研究しやすいものは分かっても、難しいものはなかなか見つからず、今後5年、10年でだんだん研究が頭打ちになることが考えられます。今後の研究の比重としては、薬をどう使うかというところに移るのではないかと思われます。ある薬が効果があるかどうかをどうやって判断するかを遺伝子レベルで確かめていく研究の方が、創薬や治療につながりより患者さんの利益になるのでは、ということです。
女子医大のように実際に多くの症例を持つ病院のある研究施設でなければできないことに今後はより力を入れるべきだ、と思っております。
―最後に「国際統合医科学インスティテュート(IREIIMS)」事業の1つの大きな柱であった人材育成の実績、経験については東京女子医科大としては、どのように生かし、継承していこうとしているかを伺います。
人材育成については、学内に新しく医療人統合教育学習センターという組織が出来ました。スキルスラボといういろいろなシミュレーションのトレーニングをする部屋があり、医学生だけじゃなくて、女性医師で一度離職された方がまたトレーニングをして医療に戻るといった女子医大ならではの機能を備えています。さらにコ・メディカル(医師以外の医療従事者)の人や研修医など交じり合って使用するような場所を設けるなどIREIIMSの経験を継承しております。
もう一つはIREIIMSではラウンドテーブルディスカッションを重視し、eラーニングのシステムがありました。それも継承しようということで学内にe-ラーニングのシステムを構築し、それでいろいろな症例を勉強するよう今、学内でどんどんコンテンツを入れてもらっています。学生さんだけではなく、職員の方にも勉強してもらう仕組みにだんだんなっていますが、それもIREIIMSで始めたものを生かそうということでやっているところです。
IREIIMSというプロジェクトを始めるに当たっては、医学部や看護学部の中にではなく大学の理事会の下につくり研究から人材育成までを含めた統合医科学という考え方でつくったので、大学全体として成果を引き継ぐことは当然のことと言えます。
日本の医療についてはさまざまな問題点が指摘されています。統合医科学研究所の取り組みを通じ、遺伝子医療の分野への理解度が高く、診療に活用することができる医師やコ・メディカルを育成する環境を構築したいと考えています。遺伝子医学を診療の一部に導入することで、情報・理解を共有し、医療人の質を上げていくことが大切だと思います。そのような努力を積み重ねていることで、患者さんに信頼される医療の発展に貢献できればと願っています。
(完)

(みたに しょうへい)
三谷昌平(みたに しょうへい) 氏のプロフィール
鳥取県立鳥取西高校卒。1984年東京大学医学部卒、88年東京大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。東京大学医学部助手、日本学術振興会海外特別研究員、東京女子医科大学講師、同助教授などを経て、2007年東京女子医科大学第二生理学教室教授、10年から統合医科学研究所長兼任。専門は分子遺伝学、ゲノム機能学。特に線虫および哺乳類細胞を用いた多細胞生物の遺伝子機能解析で国内外に知られる。