インタビュー

第2回「時代を解くキーワード『いながらにして』」(松沢哲郎 氏 / 京都大学 霊長類研究所長)

2010.08.20

松沢哲郎 氏 / 京都大学 霊長類研究所長

「多様性が育むもの」

松沢哲郎 氏
松沢哲郎 氏

地球には人間のほかに生物学の分類でいうヒト科に属する生きものがいる。チンパンジー、ゴリラ、オランウータンである。大型類人猿と呼ばれてきたが、サルではないため最近は「類人」と称するそうだ。近年のゲノム解析によると、チンパンジーと人間のDNA塩基配列は約1.23%の違いと分かった。京都大学霊長類研究所では文字や数の学習をするチンパンジーのアイを中心に「アイ・プロジェクト」が行われ、ヒトの進化の解明にも道を拓く。6月には、この10年間の研究成果をまとめた「人間とは何か」(岩波書店)が出版された。同研究所の松沢哲郎所長に取り組みと展望を伺った。

―日常の中でこじんまりというのは、コンビニなどでそこそこ間に合う生活スタイルが多いからでしょうか。あらかじめ品そろえや値段や品質がほぼ分かっていて、一定の供給から選ぶだけのような。

逆に言うと、インターネットショッピングやe-ラーニングにしろ、これほど情報が満ちあふれた時代を人類は経験していないと思うけれど。多分、「いながらにして」という言葉が重要なポイントだと思うのです。いながらにしてそのような気になる。3次元の情景や匂いまで付いてくるような映像とか見えるわけでしょう。

インターネットでいえば、いながらにしてどんな情報だって手に入るじゃないですか。実際にデパートの婦人服売り場に行って選ぶよりももっと豊富な品ぞろえがそこにあるわけです。それをいながらにしてコーディネートできるわけでしょう。本当に自分の側から主体的に足を使って動き回るということをしなくても、いながらにしてある程度のことができてしまう。そういう環境になっているから、あえて外へ出て行く必要がなくなっているのかもしれないですね。

―仮に人間が3D(3次元)映像に慣れてしまうと、その先に満たされない欲望が増え、刺激を追い求めていくのでしょうか。ご研究のテーマからそれるかもしれませんが、科学技術が人間の感覚にどのように作用して、家族間や対人関係にも影響していくのか気にかかります。

いえ、僕の研究とそんなに違わなくて、チンパンジーのことを知りたいというのは研究の1つの動機であって、もう1つは人間を知りたいということです。例えば親子関係、兄弟関係の場合、チンパンジーの出産は約5年間隔なので、人間のような年齢の近い兄弟はいないし、まして年子などありえません。人間にとってはごく当たり前のことが、実は人間独特の特徴だったりします。チンパンジーはシングルワーキングマザーだから、人間のように家族みんなで子どもを育てることしないのです。何が人間の人間らしいところかというのは、1つのユニークな方法としてチンパンジーを勉強するとよく分かります。一人ひとりの性向というか、人間だとついしてしまいがちな振る舞いとかわれわれの研究視野の範囲です。

―研究所のチンパンジーコミュニティには、近所のおばさん的な見守る存在もいます。人間では子どもの虐待が深刻な問題です。赤ちゃんとのかかわり方で何かが不足しているのでしょうか。

なかなか難しいところです。チンパンジーを研究することで人間の子育てが自分なりによく理解できるようになったし、人間らしい教育、親子関係というのも見えてきました。手のかかる子どもたちを育てるのは、お母さんだけじゃなくて、お父さん、おじいさん、おばあさん、兄弟、みんなです。共に育て、共に育つ。それが親子関係の基本だと思っています。では現代の日本が必ずしもそうなっていないならば、どこに原因があるか。はっきりしているのは、いまや3世代同居のような親子関係が消滅しつつあるということです。

チンパンジーがいる西アフリカのギニア共和国のボッソウ村の人たちは、いま言ったような家族がいて、兄や姉が一緒に弟妹の面倒を見るという暮らしを送っています。今日の日本のように特に深刻だと人々が騒ぎ立てるほどのことはないです。そうすると社会の仕組みとか置かれている状況が問題なので、何か人間の本性が変わってしまったということではないんじゃないですか。

―社会に向けてご提言などは?

結果として提言していることになっているかも知れないけれど、積極的にはありません。チンパンジーと人間を科学の研究テーマにしてきました。その限りでいえば、この世界はどうなっているか見ていこうとしているのです。科学はこの世界はこうなっているとは言います。しかし、この世界はどうすべき、どうあるべきかというのは科学の範疇(はんちゅう)を超えています。私は科学者、学者ではあるけれど、評論家ではないし、まして政治家ではない。現在の日本社会の親子関係が、かなり人間の本性と違ったものになっているとは思います。そうだとわかれば、人々の暮らしと自然の摂理とのかかわりをあらためて考える大きな切り口になると思います。

私たちヒト学術研究で一番大切なことは、まだ世界中の誰も見ていないことを考えたり、なされていないことに取り組むことです。新発見したことを「論文」という限定された形で世の中に問うわけでしょう。それがいわば同業の数人、あるいは数十人に知られて、「すごい発見だ、発明だ」ということになって、じわじわと社会に浸透していきます。自分たちの研究がマスメディアを通して直接人々に結びつくわけではないのです。ただ私もメディアで発信することはありますよ。テレビに出演、新聞に寄稿、取材も受けます。でもそれは自分の研究者としての暮らしの本当にごく一部です。そうじゃない方もいらっしゃるけれど、僕の場合はまさに研究、教育、社会貢献の順番になっています。

時々社会とつながりを持つけれど、できるだけ研究者・学者としての矩(のり)を超えないようにしています。自分がはっきりと見たこと、科学的な証拠に基づいて「これが真実です。世界はこうなっています。皆さんお気づきになっていないけれど親子関係はここに本質があります」ということは言います。でもそれ以上は受け手の側の問題だから別に言わないんです。

―受け手が個々に事実を判断する。そうしますと伝える側、メディアのあり方も問われますね。

サイエンスに対するメディアという話だとしたら、「こうあるべきだ」といった時点で、それはもう間違っているというのが生物学の教えなんです。生命というのは多様で、一つとして同じものはない。答えは決して一通りではないというのが生物学の真理です。今年はたまたま日本で「生物の多様性に関する条約」の締結国会議が開催されますが、多様性というのは僕が学んだ生物学の間違いのない真実です。もしみんながギュッと軍隊のようにそろっていたら、環境がガラッと変わると適応できないことになる。ある種すそ野がダラーと広がっているから、環境の変動に適応したものが伸びていく。それが生命というものの本質です。だから何十億年という時間をかけて生命をつないでこられたのです。

それはメディアも含めて人間のさまざまな行為全般に言えることで、もっと柔軟に考えられるはずですよ。言い換えると、どんな素材でもおいしく見せてしまう技術だってあるんですよね。どんなにおいしいものだって料理が悪ければそれはまずいものにしかならないし。だけど専門家が言ったことをいかにも自然に、本人以上に上手にまとめるってなかなか難しいことじゃないかな。

―取材、編集の時点で、伝える側のフィルターやバイアスがかかっています。

もちろんです。物事を正確に伝えるという意味では、その道のスペシャリストが書いた方が正確だけど、正確ならばうまく伝わるかと言えばそうじゃない。なぜなら聞き手というのは違った要求、違った世界、違った理解度、違った語彙(い)の中に住んでいます。従って、よくも悪くも学者ばかというような人が書いた文章が必ずしも良いとは限らないですよね。一般を対象に分かりやすい文章を書く教育を少しでも受けていれば別ですが…。いずれにしてもどんな仕事も簡単ではなく、サイエンティストもメディアの人たちも日々悩み苦しんで向かっているわけですが。

(SciencePortal特派員 成田 優美)

(続く)

松沢哲郎 氏
(まつざわ てつろう)
松沢哲郎 氏
(まつざわ てつろう)

松沢哲郎(まつざわ てつろう) 氏のプロフィール
東京都立両国高校卒、1976年京都大学大学院文学研究科博士課程を中退、同年同大学霊長類研究所心理研究部門助手、93年同研究所教授(行動神経研究部門思考言語分野)、2006年から現職。理学博士。1978年創設された「アイ・プロジェクト」でチンパンジーの知性を研究、85年世界で初めてチンパンジーがアラビア数字による数の概念を表現できることを明らかにした。86年からギニア共和国のボッソウ村付近で野生チンパンジーの生態を継続的に調査、2000年からチンパンジーの世代間の文化伝達を研究、新しい研究領域である「比較認知科学」を開拓、07年チンパンジーの直観像の記憶能力を解明。日本学術会議会員、日本霊長類学会理事、日本動物心理学会理事、日本赤ちゃん学会副理事長、日本モンキーセンター理事ほか。1991年秩父宮記念学術賞、2001年ジェーン・グドール賞、04年紫綬褒章、中日文化賞、日本神経科学会時実利彦記念賞など受賞。著書は「おかあさんになったアイ・チンパンジーの親子と文化」(講談社)、「チンパンジーから見た世界」(東京大学出版会)、「人間とは何か:チンパンジー研究から見えてきたこと」(岩波書店)など多数。

関連記事

ページトップへ