インタビュー

第5回「国際潮流も異分野架橋型」(小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー)

2010.07.21

小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー

「脳科学で教育を変える」

小泉英明 氏
小泉英明 氏

ゆとり教育からの脱却と評される小学校の新しい教科書が姿を表した。来年度から使われる。中には、これでゆとり教育が完成したのだと主張する人もいるが、ゆとり教育によってもたらされた基礎学力低下にようやく歯止めがかかる、と期待する向きが大方のようだ。なぜ、教育政策が揺れ動いてきたのだろう。脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、実際に意欲的な大規模研究プロジェクトを主導してきた小泉英明・日立製作所役員待遇フェローに意図はどこまで貫かれ、何が依然、未解明なままかを聞いた。

―これまでの成果が今後の脳科学研究にどのようにつながるのかを伺います。

文部科学省が「我が国における脳科学研究の基本的構想」を昨年、公表しました。科学技術・学術審議会の審議を経てまとめられたもので、脳科学研究が目指すべき方向と研究推進についての考え方に加え、5年後、10年後、15年後にそれぞれ目標とする新しい融合脳科学が目指す「研究テーマの拡がり」と「新しい技術」が盛り込まれています。

基本的な考え方は、脳科学は異分野領域架橋型で進めるべきだ、ということです。「脳科学研究の成果は、多くの関連領域の発展を牽引(けんいん)するものであり、脳を情報処理装置とみなして工学系領域のみならずこれまで自然科学と距離があると考えられてきた哲学、心理学、教育学、社会学、倫理学、法学、経済学など人文・社会科学の領域に加えて、芸術などの領域を含むあらゆる人間の精神活動の所産である文化が、脳科学の研究の対象となり得る」と明記されています。

この基本構想をつくるうえでは、私も以前に理事をしていた日本神経科学学会の人々がかなり関係しています。基本構想の審議過程における検討資料として「新しい脳科学の目指すもの」という図があります。5年後を目標とする近未来の「研究テーマの拡がり」の中に「長期発達コホート研究の立ち上げ」が入っています。これは当初は10年先の目標の中で議論されていたのですが、金澤一郎・日本学術会議会長(科学技術・学術審議会・脳科学委員会委員長)などが「大事だから緊急にやる必要がある」と主張してくださり、直近の5年目標の中に前倒しされたとうかがっています。

科学技術・学術審議会の脳科学委員会自体が、まさにいろいろな分野の架橋・融合なのですが、その委員会がこのような図を示したことは、架橋・融合でなければ研究は進められないという認識がだんだん深まってきた、ということかと思います。

海外からも「脳科学と社会」研究開発領域に対する関心が高まっており、経済協力開発機構(OECD)から出版された書籍にも、この領域の内容が紹介されています。2007年にはケンブリッジ大学出版局から『The Educated Brain』が出版されましたが、今年には神経科学者のダマジオ夫妻(南カリフォルニア大学教授)や教育学者のガードナー先生(ハーバード大学教授)とご一緒する著作が、ニューヨーク大学出版局から出版されます。来年には、オクスフォード大学出版局から、「脳科学と教育」全般についての書籍も出版されます。

欧米だけでなく、中国や韓国からもわれわれの活動に対する問い合わせが増えています。中国は、新しい教育を政策の中心に据えて大変に熱心です。今度、私が書いた書籍を中国教育部の高等教育出版社が中国語に翻訳して出版(『脳科学与教育』)してくださったこともあり、中国の一般向け雑誌などにもいろいろと紹介されました。

OECDでは02年からCERI(教育研究革新センター)の国際諮問委員をやらせていただいており、OECD編著で『Understanding the Brain―towards a new learning science』という書籍の出版に協力しました。これは6カ国語に翻訳されていますが、日本語訳も05年に監修し『脳を育む-学習と教育の科学』と言う日本語の題名で出版させていただいております。この中に「神経神話」(ニューロミソロジー)という言葉が出てきます。「脳神話」と訳すべきか迷い、巻末の関連用語集では両方示しましたが、今は「神経神話」という訳語の方が一般的になっていますね。

―神経神話というのはどういうことですか。

「脳科学からするとこうだ」と本当のことではないのに皆が信じ込んでしまうようなことを言います。左脳人間、右脳人間などとよく言われますが、脳神経科学から言うとそんな単純な話ではありません。「3歳までに脳の基本的な能力は決まってしまう」「語学や音楽などの学習には、逃したら取り返せない臨界期がある」「私たちの脳は10%くらいしか使われていない」「若い脳は一つの言語しか一度に処理できない」「あなたの脳の記憶力を鍛えよう」「眠っている間に学習しよう」などといった説は、いずれも科学的な根拠が全くないか、あるいは大きく誇張された「神経神話」の部類です。

02年に続き、OECDがもう一冊『Understanding the Brain―The Birth of a Learning Science』という本を07年に出版しました。その第6章に今お話ししたようなことについて詳しく書かれています。日本語訳の書籍を出版するため現在翻訳中なのですが、最近になって「神経神話」という言葉がマスメディアなどにも登場するようになったのは、これらの本が出所です。

―社会への実装と同時に、アウトリーチということも「脳科学と教育」プログラムの成果の一つといえるのでしょうか。

そのように思います。社会実装についても、さらに次のプログラムへとつながっていった種々の発達障害・学習障害の研究成果があります。例えば、自閉症スペクトラム障害に関するコホート研究(代表研究者:神尾陽子 国立精神・神経医療研究センター部長)」や学習困難児への支援の研究(代表研究者:正高信男 京都大学霊長類研究所教授)、また、高齢者介護施設に広く実装を展開した「学習療法」(川島隆太東北大学教授)例もあります。まず、障害という「特殊」なケースを対象として学習・教育研究を進め、それをやがて「一般」へと展開して行く考え方です。

どの場合でも、人間を対象とする研究ですから、プログラムを始めるに当たって、「倫理を何よりも優先する」という基本方針を最初に打ち立てました。それを実行するために、「脳神経倫理グループ」という組織を「脳科学と社会」研究領域の内部に造りました。グループのリーダーは、佐倉統先生(東京大学情報学環教授)にお願いし、研究専任のポスドクを米国からリクルートしました。10数人の種々の分野からのボードメンバーが、問題点を頻繁に議論してくださいました。ボードをつくったのは佐倉先生のアイデアです。

脳神経倫理研究グループ自身も種々の研究成果を出しています。「倫理最優先の基本方針」に沿って、領域内の研究グループが外に発信するときは、「神経神話」のようなことにならないよう注意しました。例えば、「今、どこまで分かって来て、どこまでは動物実験レベルでしか分かっていない」あるいは「人間ではまだこれは検証されていない」といったことを明確に言うようにし、かつ、学術的な参考文献を常に示すように努力しました。

実際には、今、脳に関係づけた本がよく売れており、脳の専門家でもない人が何でも言えて、そういう人が「自分は脳の専門家だ」と言うと、皆がそれを信用してしまうという現実があります。ですからOECDは「最初に気をつけるべきは神経神話だ」と、02年の研究開始時点に明確に打ち出したのです。

本領域のプログラムではたくさんのお子さんたちに協力していただきました。例えば、実際に脳を計測させていただいたら、脊髄(せきずい)空洞症などの重篤な疾病が見つかったケースがありました。インフォームドコンセントで、こうした場合にどうするかということは当初、必ずしも明確ではありませんでした。むしろ「知らせない」という形になっていたのですが、実際にお子さんたちを観察しているのは医師の方々も多いので、研究グループの中で「医師の立場から黙って見過ごすことはできない」という声が上がります。それで先ほどお話した脳神経倫理グループで検討して「このケースは軽症で特に知らせる必要はない」「このケースは後で命にかかわるから、適切な病院を紹介するべきだ」などの倫理処置についての結論を出しました。実際に病院に行ったお子さんもいます。

こうしたきめ細かな対応をしたおかげで、人権問題や倫理にかかわる大きな問題が、1件も起きなかったことが大変ありがたいことでした。今回のコホート研究全体では、赤ちゃんから高齢者まで、総計で約1万人の協力者の方々が関係しておられます。また、個人情報保護法が研究の途中(05年4月1日)で施行されるという困難な状況のなかで、最後まで大過なく終えることができたことに、研究者や支援者のみなさまに心から感謝しています。

ことし5月には、日本小児神経学会総会(会長:松石豊次郎久留米大学教授=すくすくコホート睡眠研究チームリーダー)で、「子どもの発達コホート研究の意義と課題」というシンポジウムが開催されました。これは専門家へのアウトリーチの一環です。

―先ほども伺いましたが、成果の世界に向けての発信と反応について再度、伺います。

一番、大きなものとしては、ハーバード大学の研究者と連携して「International Mind, Brain, and Education Society」(IMBES)という国際学会を04年につくったことでしょうか。創立理事をいまだに続けております。その学会が07年に「Mind, Brain, and Education」(MBE)という新しい雑誌をブラックウェル社から出しました。心理学と 神経科学と教育学という遠い異分野が一緒になった学術雑誌というのは世界的に見ても例がないのです。米国の出版協会(AAP)が翌08年に「The Best New Journal Award」に選んでくれました。世界の雑誌の中から、自然科学系と人文・社会科学系でそれぞれ1件のみですから、夢のような話です。これからの異分野架橋・融合の時代に、この種の新しいプラットホームが大切だと思われます。

この第1巻第1号冒頭に「なぜ、今、こういう分野が必要か」という論文を、編集長で中心人物であるカート・フィッシャー・ハーバード大学教授と数人の副編集長とで書きました。

この学会は2年ごとに、「International Mind, Brain, and Education」という国際会議を開催していますが、さらにこの学会の一環で、「Asia-Pacific Symposium on Mind Brain and Education」を08年に中国政府(東南大学心脳教育センター)の主催で開きました。中国教育部元副部長(文部副大臣)のWei Yu女史と一緒に共同主席(会長)を務めさせていただきました。中国の研究者の方々は、今、燃えています。

ハーバード大学が中心のIMBESと、OECDの活動は、当初、全く関係がなかったのですが、たまたま私が前者の理事と後者の国際諮問委員を兼務していたこともあり、この数年、連携が進み、最近はかなり緊密に相互協力しております。脳科学研究においては異分野領域架橋型の研究スタイルが、世界でも当たり前になりつつあるといえると思います。

(続く)

小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)
小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)

小泉英明(こいずみ ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒、1971年東京大学教養学部基礎科学科卆、日立製作所入社。計測器事業部統括主任技師、中央研究所主管研究員、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年から現職。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出(1975年)したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置(1985年)、MRA(磁気共鳴血管撮像)法(1985年)、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置(1992年)、近赤外光トポグラフィ法(1995年)など脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域総括。02年度から経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」 国際諮問委員。国際心・脳・教育学会(IMBES)創立理事、MBE誌創刊副編集長。著書に「脳は出会いで育つ:『脳科学と教育』入門」(青灯社)、「脳図鑑21:育つ・学ぶ・癒す」(編著、工作舎)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)など。

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