「脳科学で教育を変える」
ゆとり教育からの脱却と評される小学校の新しい教科書が姿を表した。来年度から使われる。中には、これでゆとり教育が完成したのだと主張する人もいるが、ゆとり教育によってもたらされた基礎学力低下にようやく歯止めがかかる、と期待する向きが大方のようだ。なぜ、教育政策が揺れ動いてきたのだろう。脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、実際に意欲的な大規模研究プロジェクトを主導してきた小泉英明・日立製作所役員待遇フェローに意図はどこまで貫かれ、何が依然、未解明なままかを聞いた。
―研究プロジェクトの目的は結局、人間の行動と脳の働きの関係をできるだけ明らかにするということなのでしょうか。
もう一つ大事なことは、最近の神経科学で、人間がなぜ行動するかの根元のところが分かりつつあることです。マカクザルなどの研究で、快いと感じて行動したり、習慣をつくるところが脳の決まった場所(大脳基底核など)であることが分かってきたことです。さらに、人間の場合には、過去の記憶を参照して未来の報酬を予測する神経回路と、快を感じる神経回路が緊密に連携している可能性が見えてきました。食物を食べたときや、セックスをしたときに快を感じたり、それを再び繰り返したくなるというのは、生物が生存していくために重要な行動ですから、脳の決まった場所がそれを司るというのは理にかなっています。
半世紀ほど前に、ネズミがレバーを押すと、そのネズミの脳の快感中枢が刺激されるような仕掛けを施した実験が行われました。ネズミはものを食べなくても快感を得られるわけですから、際限なくボタンを押し続けるようになります。ものも食べずに、死に至るまでレバーを押し続けるのです。ただ、動物の快感というのを人間が勝手に考えているという点は慎重にしなければなりませんが。
―ネズミが死ぬまでレバーを押し続けるというのは、人間にとっての麻薬みたいですね。
ええ。こうした快感を得る仕組みは遺伝子に組み込まれていると考えられます。fMRI(機能的磁気共鳴描画)を初めとする研究の結果、人間も快感を得る際に活動する脳の場所はサルと類似していることが分かってきました。ただし、人間の場合、食べたりセックスをしたりすることに加え、お金を得たときも脳の同じような部分が働いて快感が得られるのです。しかし、お金を得ることが快感だ、ということは生まれてすぐの赤ちゃんの時にはあり得ません。成長に伴ってお金を得ることが直接、あるいは間接的に生理的報酬に結びつくことを学習するため、と考えられます。
もっとも金持ちになりすぎるともはやお金をもうけることが快感とはならなくなるようです。世界的な大金持ちくらいになると、お金が快感を生むより逆にいろいろなストレスの原因になるようですね。大金が入ってきても、もはやあまり感動しない一方で、財産が少しでも減るととても気になったり(笑い)、家族や自分の安全がいつも心配だったりするとも聞きました 。
人間の場合、お金に加え、さらに重要なことが分かりました。自分が他人から信頼されていると確信したとき、あるいは高い評価を受けたときも、サルがバナナをもらったときと同じような脳の部分(線条体の被殻や尾状核)が活性化することが分かったのです(定藤規弘ニューロイメージング・グループリーダー:生理学研究所 教授)。
また、問題が解けたときの純粋な喜びでも報酬系、特に線条体が活性化することが見いだされました(代表研究者:渡辺恭良 理研分子イメージング科学研究センター長)。これもお金と同様、生まれたときからそうだとは考えられませんね。社会的に好ましいものが得られるときに脳の快感を感じ取る場所が刺激されるというのは、お金と同様、経験・学習に基づくものといえます。
―ではこうした成果を、よりよい教育システムをつくりあげることにどのようにつなげられるのでしょうか。
人間は未来の時制を感じることができる最初の動物なのではないかと、私は考えています。他の動物は、マカクサルにしてもせいぜい数十秒程度先のことしか考えられないでしょう。動物の中には餌を地中に埋めて1年後に掘り出す、あるいは前にお話ししたオトシブミのように卵を葉にくるめて地中に落とし、安全にふ化させるような賢いことができるものもいます。しかし、それらの行為は未来の世界を予想してそうしているというより、遺伝子にそれが組み込まれている情報と考えられ、未来を考えながら行動しているわけではなさそうです。
人間は報酬を得たときに感じる脳の部位が、未来のことを考えることでも快を感じるということも分かってきました。単にショーウインドの中の商品を見ただけでは、特にうれしいと感じなくても、お金をためて何カ月後にその商品が買えそうだ、と想像あるいは実感したときには快感、幸福を感じるのです。
未来予測と幸福が結びつくという考えについては、宗教学者の方々も関心を持ってくださいました。時間、つまり未来を考えることができる動物である人間だから、予測することでも幸福感に浸れるということなのです。こうしたことが分かったことで経済の構造なども見えて来ます。期待できる未来が見えてくると幸福感が得られる、ということです。
他者から信頼を得られることが人間にとっては報酬で、人のために何かをやったことでも報酬感を得られます。さらに、将来そんな人間になれるということを予測すること、あるいはそのような志を持つことでも報酬感を得ることができます。あるいは意欲を持つことができる。それなら人のため社会のためになる人間になりたい、と考えるように育てたらどうか。それこそ教育の役割であると言えるでしょう。それを神経科学的に明確にしつつあるのも「脳科学と教育」の成果だと考えております。
さらに、日本の教育で深刻な問題は、学習意欲や興味の著しい低下です。PISA(生徒の学習到達度調査)の結果は、学力は世界でもトップグループにいますが、学習意欲は最下位グループです。どうしたら学習意欲を持つことができるのかということも、今回の研究から示唆が得られています(渡辺恭良 理研分子イメージング科学研究センター長グループほか)。それに、教育の基本である「褒める」「しかる」という点も、脳科学から見えつつあると考えています。
科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業(CREST)の「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」(研究総括:津本忠治 理研脳科学総合研究センター・グループディレクター)とも緊密な連携を取り合い、研究総括と領域総括が互いに相手プログラムのアドバイザーを兼務してきました。例えば、臨界期や報酬系に関する基礎研究は、CRESTでよい成果が出ていると思います。
人間の脳深部神経核間の接続性は、まだ、十分に分かっていないことも多く、現在、動物実験で新たな知見が得られたものを、人間でも非侵襲脳機能イメージングでさらに新たな知見を追加していくような研究が進んでいます。これからは人類が限られた地球上の資源を共有しながら、どうしたら平和に、かつ、充実した幸せな生活を維持できるか(“Human Security & Well-Being”)、脳の知見を基調に将来の方向を見いだして行かなければならない時代へと、入りつつあるのではないでしょうか?
人間は未来の時制を感じることができる最初の動物なのではないかと、私は考えています。他の動物は、マカクサルにしてもせいぜい数十秒程度先のことしか考えられないでしょう。動物の中には餌を地中に埋めて1年後に掘り出す、あるいは前にお話ししたオトシブミのように卵を葉にくるめて地中に落とし、安全にふ化させるような賢いことができるものもいます。しかし、それらの行為は未来の世界を予想してそうしているというより、遺伝子にそれが組み込まれている情報と考えられ、未来を考えながら行動しているわけではなさそうです。
人間は報酬を得たときに感じる脳の部位が、未来のことを考えることでも快を感じるということも分かってきました。単にショーウインドの中の商品を見ただけでは、特にうれしいと感じなくても、お金をためて何カ月後にその商品が買えそうだ、と想像あるいは実感したときには快感、幸福を感じるのです。
未来予測と幸福が結びつくという考えについては、宗教学者の方々も関心を持ってくださいました。時間、つまり未来を考えることができる動物である人間だから、予測することでも幸福感に浸れるということなのです。こうしたことが分かったことで経済の構造なども見えて来ます。期待できる未来が見えてくると幸福感が得られる、ということです。
他者から信頼を得られることが人間にとっては報酬で、人のために何かをやったことでも報酬感を得られます。さらに、将来そんな人間になれるということを予測すること、あるいはそのような志を持つことでも報酬感を得ることができます。あるいは意欲を持つことができる。それなら人のため社会のためになる人間になりたい、と考えるように育てたらどうか。それこそ教育の役割であると言えるでしょう。それを神経科学的に明確にしつつあるのも「脳科学と教育」の成果だと考えております。
さらに、日本の教育で深刻な問題は、学習意欲や興味の著しい低下です。PISA(生徒の学習到達度調査)の結果は、学力は世界でもトップグループにいますが、学習意欲は最下位グループです。どうしたら学習意欲を持つことができるのかということも、今回の研究から示唆が得られています(渡辺恭良 理研分子イメージング科学研究センター長グループほか)。それに、教育の基本である「褒める」「しかる」という点も、脳科学から見えつつあると考えています。
科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業(CREST)の「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」(研究総括:津本忠治 理研脳科学総合研究センター・グループディレクター)とも緊密な連携を取り合い、研究総括と領域総括が互いに相手プログラムのアドバイザーを兼務してきました。例えば、臨界期や報酬系に関する基礎研究は、CRESTでよい成果が出ていると思います。
人間の脳深部神経核間の接続性は、まだ、十分に分かっていないことも多く、現在、動物実験で新たな知見が得られたものを、人間でも非侵襲脳機能イメージングでさらに新たな知見を追加していくような研究が進んでいます。これからは人類が限られた地球上の資源を共有しながら、どうしたら平和に、かつ、充実した幸せな生活を維持できるか(“Human Security & Well-Being”)、脳の知見を基調に将来の方向を見いだして行かなければならない時代へと、入りつつあるのではないでしょうか?
(続く)
小泉英明(こいずみ ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒、1971年東京大学教養学部基礎科学科卆、日立製作所入社。計測器事業部統括主任技師、中央研究所主管研究員、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年から現職。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出(1975年)したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置(1985年)、MRA(磁気共鳴血管撮像)法(1985年)、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置(1992年)、近赤外光トポグラフィ法(1995年)など脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域総括。02年度から経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」 国際諮問委員。国際心・脳・教育学会(IMBES)創立理事、MBE誌創刊副編集長。著書に「脳は出会いで育つ:『脳科学と教育』入門」(青灯社)、「脳図鑑21:育つ・学ぶ・癒す」(編著、工作舎)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)など。