「新型インフルエンザ対策は地道に」
専門家が早くから予測していたように新型インフルエンザが猛威を振るい始めた。政府は国内で必要となるワクチンが国内生産では足りず、不足分は海外から輸入する意向を明らかにしている。しかし、新型インフルエンザ対策は、まさに季節性インフルエンザ対策と同じで地道な努力の積み重ねが大事。こうした考え方から、ワクチンの輸入に対し否定的な意見も専門家から聞かれる。長年、インフルエンザウイルスの研究で指導的な役割を果たしてきた喜田 宏・北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター長に新型インフルエンザの実像と求められる対応策を聞いた。(2009年8月6日、科学技術振興機構主催、メディア向けレクチャー会講演から再構成)
―カモがウイルス遺伝子の供給源
新型インフルエンザウイルスはどうやって出てくるのか、という研究を三十数年前に始めました。インフルエンザウイルスは人を含むいろいろな哺(ほ)乳類と鳥類に感染します。その中で、秋にシベリアから北海道に飛んでくるカモのふん便から大量にいろいろなインフルエンザウイルスが分離されるということが分かりました。
インフルエンザウイルスは、表面にヘマグルチニン(HA)とノイラミニダーゼ(NA)というタンパクがあり、HAは1-16、NAは1-9の亜型に分けられます。カモはすべての亜型のインフルエンザAウイルスを持っているのです。ウイルスはカモの腸で増えて、ふん便と一緒に排せつされます。水鳥ですから水系ふん口感染で、感染したカモは症状は出さず大量にウイルスをふん便と一緒に排せつします。渡りによってウイルスを運ぶので、カモはインフルエンザウイルス遺伝子の供給源でもあるわけです。
1968年に出現した新型香港AインフルエンザウイルスA/Hong kong/68というのがあります。20世紀以降、ヒトの新型インフルエンザウイルスは3回出現しました。1918年のスペイン風邪ウイルス、1957年のアジア風邪ウイルスと、この新型香港Aインフルエンザ(香港風邪)ウイルスA/Hong kong/68ですから、A/Hong kong/68が最も新しい新型ウイルス(H3N2)です。
―ブタの呼吸器が製造工場
中国や台湾での疫学調査の途中で得られたブタ由来のH3N2ウイルスを調べると、A/Hong kong/68と区別がつかないウイルスがたくさんあります。しかもレセプター(受容体)の特異性を決定するアミノ酸配列にヒトのウイルスと、鳥のウイルスと同じものがあることが分かりました。その後、河岡義裕・東京大学医科学研究所教授らとの共同研究で、ブタの呼吸器上皮細胞にはヒトと鳥両方のウイルスに対するレセプターがあることを証明しました。すなわち、ヒトのウイルスと鳥のウイルスがブタに同時に感染して、遺伝子を交換した遺伝子再集合ウイルスができる。つまり、新型インフルエンザウイルスの製造工場にブタの呼吸器上皮細胞がなっているということです。
ちょっと待てよ。カモからブタ経由でヒトに移ったというが、カモはどうやってブタにウイルスを移すのか。そんな疑問が生じるでしょう。自由に空を飛んでいる渡り鳥がふん便とともにウイルスを排出したとしても、ブタがそれを食べるわけではありませんから。そこで、中国の農家で飼われているアヒルやガチョウから分離されたウイルスを調べました。その結果、A/Hong kong/68と同じウイルスが得られ、分離されました。そういうことで、水生家禽であるアヒルやガチョウが、水鳥であるカモとブタの仲立ちをする役割を演じていたことが分かりました。
結局、1968年に香港風邪を引き起こしたA/Hong kong/68は、カモのウイルスがアヒルやガチョウを介してブタに感染し、一方、当時ヒトの間で流行していたアジア風邪のウイルスが中国南部でブタの呼吸器に同時感染し遺伝子再集合によってできたウイルスだ、ということを証明したわけです。
こうした証明は、ほかの新型ウイルスについてはありませんが、アジア風邪のウイルスも同じだろうと考えられています。また、スペイン風邪のウイルスも鳥から直接ヒトに感染したという意見もありますが、私は1918年1月に米イリノイ州から広がったブタインフルエンザウイルスにその起源があると考えています。いずれにしても、過去の新型ウイルスの出現にはブタがかかわっていたということと、鳥のウイルス由来の遺伝子分節が、それまでヒトで流行していたウイルスに入り込んで新型ウイルスができたと考えております。
では、どんなウイルスがブタに感染して、どんなウイルスがブタに感染しないのか。それを調べることが重要です。ブタに感染しないウイルスなら新型ウイルスになる資格がないと考えられるからです。ブタの鳥インフルエンザウイルスに対する感受性を3年ほどにわたって調べました。結局分かったことは、どの型のHAを持ったウイルスも、ブタの呼吸器で増えることができる、ということです。どのウイルスも新型ウイルスとして現れる資格はある、ということになります。
ブタはどのHA亜型の鳥インフルエンザウイルスにも呼吸器感染し、そしてブタの呼吸器上皮細胞に鳥のウイルスと哺乳動物のウイルスが同時感染すると、遺伝子分節が再集合して、新たな遺伝子の組み合わせを持ったウイルス、すなわち遺伝子再集合ウイルスができ、これらが新型インフルエンザウイルスの候補になるということです。
―ウイルスの故郷はアラスカ、シベリアの湖沼
では、カモはウイルスをどこから持って来るかを明らかにするために、生態学的な研究を随分長いことしました。結局分かったのは、アラスカです。カモはそこで夏の間、卵を産んで、ひなを育てて、秋になると南方に飛んで来るわけですが、北極圏にほとんど近い湖や沼、アラスカの営巣湖沼の水の中に冬の間、ウイルスが凍結保存されているという証拠をつかみました。シベリアでも同じことが起きていて、北極圏に近いカモの営巣湖沼の水の中からいろいろなインフルエンザウイルスが出てくるということも分かりました。自然界における存続のメカニズムとして、純粋に物理学的な凍結保存というメカニズムが働いていたのです。だから、人類が地球上に現れる前から今に至るまで、インフルエンザウイルスは存続して来た、ということが言えると思います。
カモのウイルスはシベリアで分離したウイルスと、アラスカで分離したものは、それぞれノースアメリカンタイプ、ユーラシアンタイプと遺伝子の系統図できれいに区分けできます。
(続く)
喜田 宏 (きだ ひろし)氏のプロフィール
1967年北海道大学獣医学部獣医学科卒、69年北海道大学大学院獣医学研究科予防治療学専攻修士課程修了、武田薬品工業入社、76年北海道大学獣医学部講師。同助教授、同教授、同大学院獣医学研究科長・学部長などを経て2005年から現職。専門はウイルス学、微生物生態学、感染病理学。05年「インフルエンザ制圧のための基礎的研究-家禽、家畜およびヒトの新型インフルエンザウイルスの出現機構の解明と抗体によるウイルス感染性中和の分子的基盤の確立-」の業績に対し、日本学士院賞受賞。06年から科学技術振興機構の地域イノベーション創出総合支援事業「インフルエンザウイルス感染の新規診断キット、予防薬、治療薬の実用化研究」の代表研究者、09年6月から「インフルエンザウイルスライブラリーを活用した抗体作出および創薬応用に向けた基盤研究」の代表研究者も。日本学士院会員。