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優れた自然観と論争が河川技術を発展させた(高橋 裕 氏 / 2015年(第31回)Japan Prize(日本国際賞)受賞者)

2015.05.12

高橋 裕 氏 / 2015年(第31回)Japan Prize(日本国際賞)受賞者

2015 Japan Prize受賞記念講演会 講演「日本人の河川技術の歴史」(2015年4月21日)から

講演をする高橋 裕 氏
講演をする高橋 裕 氏

 最近うれしかったことは、2月に名古屋大学を訪問されたモンゴルのガントゥルム教育文化科学相から感謝の言葉をいただいたことです。「日本の国土特有の急流河川を支えた指導者たちには、三つの資質があった、と考えている。

 一つは強い個性と信念だ。沖野忠雄(おきの ただお)、岡崎文吉(おかざき ぶんきち)、宮本武之輔(みやもと たけのすけ)、鷲尾蟄龍(わしお ちつりゅう)、赤木正雄(あかぎ まさお)、橋本規明(はしもと のりあき)、安芸皎一(あき こういち)といった河川技術の指導者たちは大変強い個性を持ち、やることに並々ならぬ信念を持っていた。

 二つ目は、こういう指導者たちが高尚な倫理を持っていた。広井勇(ひろい いさみ)は、若いころ小樽にアジアで初めて、外海(日本海)の荒波に抵抗できる北防波堤を建設した。東大教授となって、明治、大正時代に河川のインフラストラクチャー(公共施設)を築いた優れた弟子をたくさん育てた。その一人、青山士(あおやま あきら)は、人類のために何をなすべきか悩みに悩んだ結果、土木事業者の道を選び、さらにパナマ運河建設に携わった唯一の日本人となった。7年間勤めて帰国した後は、荒川放水路や信濃川大河津分水の建設工事を指揮した。

 もう一人の弟子、八田與一(はった よいち)は、台湾で烏山頭ダムの工事を指揮、完成させた。烏山頭ダムでは與一の命日である5月8日に毎年、慰霊祭が行われ、地元の人たちに加え出身地、金沢からもたくさんの人が集まる。技術に優れていただけでなく、公共事業は人類のために行うという高い倫理を持っていた。

 指導者たちの三つ目の資質は、外国の技術をたくみに取り入れたことである。古くは武田信玄(たけだ しんげん)に四川省都江堰市の水利・かんがい施設の技術導入を進言した策彦周良(さくげん しゅうりょう)をはじめ、第二次世界大戦後に米国からテネシー川流域開発公社(TVA)の開発思想を導入した例に至る長い歴史がある。

講演をする高橋 裕 氏
講演より。信玄堤のルーツである四川省都江堰市の水利・かんがい施設を紹介。

 河川技術の発展に関して、もう一つ強調したいことは、長い目で見るとたくさんの討論が日本の技術を発展させたのではないか、ということだ。北海道庁の技師として石狩川治水計画の基礎を築いた岡崎文吉は、「自然主義」と呼ばれた独特の治水観を持っていた。

 当時、大変な権力を持っていた沖野忠雄が内務省から派遣され、札幌にやってきたが、岡崎とは考えが違う。沖野は、岡崎の自然主義は、河川事業と土地利用の関係について考えが不十分と考えたのだろう。たくさんの捷(しょう)水路で水位を下げる方式を主張した沖野と対立した岡崎は石狩川から追われた。しかし、その後、旧満州で遼河の治水を手がけた。

※捷水路:曲がった川をまっ直ぐにするために設けた人工水路

 立山砂防工事事務所長として立山の砂防工事を手がけた後、全国の砂防工事を指導した赤木正雄は「砂防の父」と呼ばれ、政治力も持つ人だった。ただし、砂防会館前に銅像もある赤木には多くの批判がある。内務省の技術者だった鷲尾蟄龍は「上流と砂防ダムのことしか考えていない」と言っていた。小出博(こいで はく)になると「赤木砂防が日本の河川上流部をめちゃめちゃにした」と厳しい持論をやや大げさに述べたと思われる。

 内務省富山工事事務所長として常願寺川の改修工事を手がけた橋本規明は、河床を掘削するためタワーエキスカベータ(大型掘削機械)を使用したり、ピストル型と呼ばれる水制(水の流れの方向を変えたり、勢いを弱める施設)など革新的工法で有名だ。私は若いころ毎年のように橋本所長を訪ね、治水の苦労話を伺った。同じ年齢の河川工学者、安芸皎一に対する批判が厳しかった。「河川に一生を懸けていない」と。安芸は私の恩師でもあるから、私は安芸の橋本に対する批判も聞いていた。「巨大な構造物によって川を制御するのは強引すぎる」というものだった。

 こうした論争は部下や周辺に伝わる。長い目で見ると、それが日本の河川技術を育てるのに役立った、と思う。論争を技術の発展に結びつける。そういう社会風土が日本にあったことを評価したい。日本人のきめ細やかな自然観が、河川技術者にも伝わっていることも、河川技術を発展させた根底にあるのではないだろうか。

 現在、IT(情報)技術、計測技術、写真などの進歩によって、河川の現象は理解しやすくなった。しかし、そのために川の現象を肉眼で、五感を通して見る感覚が衰えていないか、少々心配している。安芸皎一は現場の所長時代、富士川河口の護岸をながめながら堤防に横たわって昼寝をするのが一番の楽しみだったと言っていた。古き良き時代のエピソードである。

 多くの人が河川をながめることを愛したことが、日本人の優れた自然観を養い、その優れた自然観が日本の河川事業を支える一つでもあったと理解している。かつての大治水事業をだれが、どういう工事でやったかに対する関心が河川技術者に薄れていないか心配だ。

 川の歴史を、そこの歴史に刻み込んだ先輩たちの河川観とともに学んでいただくことを念じている。

(小岩井忠道)

高橋 裕 氏
(たかはし ゆたか)

高橋 裕(たかはし ゆたか)氏のプロフィール
1950年東京大学第二工学部卒。55年東京大学大学院(旧制)研究奨学生課程修了、東京大学工学部専任講師。同助教授、教授を経て、87年東京大学名誉教授。87~98年芝浦工業大学工学部教授。2000~2010年国際連合大学上席学術顧問。2015年日本国際賞受賞。著書に「国土の変貌と水害」(岩波新書、1971年、2015年4月復刊)、「都市と水」(岩波新書、1988年)、「河川工学」(東京大学出版会、1990年)、「地球の水が危ない」(岩波新書、2003年)、「川と国土の危機 水害と社会」(岩波新書、2012年)。

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