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人災より組織事故という考え方が大事(畑村洋太郎 氏 / 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会〈政府事故調〉委員)

2012.07.26

畑村洋太郎 氏 / 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会〈政府事故調〉委員長

日本記者クラブ主催記者会見(2012年7月25日)から

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会〈政府事故調〉委員長 畑村洋太郎 氏
畑村洋太郎 氏

 国会の福島原子力発電所事故調査委員会が今回の事故について「人災だ」という表現をしている。しかし、私たちはそういう表現をしていない。「人災だ」と言ってしまうと、多くの人々の意識としては「だれが悪かったか、何がおかしかったか」に結びつけたくなるからだ。「関係した人の判断、行動がおかしかったので、この災害が起きた」と人の責任に帰着させて、分かったような気になってしまう。そして、それ以上考えなくなってしまうように見える。

 そうではなく、どういう状況、どういう所で人はどのような判断をするか。その結果がどうだったかが重要であって、「だれが悪い、おかしい」ということでは、事故から得られた知見を将来生かすことはできないと考える。

 調査を始めるに当たって、「責任の追及を目的としない」と言った。追及すると調査の対象者から真実を語ってもらえないからだろう、と受け止められたが、もっと深い意味がある。初めからだれかの責任を追及しようとすると、本当に学ぶべきものも学べなくなってしまう心配があるからだ。大きな事故が起きるとほとんどの日本人は警察が調べると思っている。警察の任務というのは悪者を捕まえることだ。責任追及をすれば、片がついたと思っている人が多いように見える。

 警察が責任を追及となると業務上過失傷害、業務上過失致死といった刑法の条項が適用され、予見可能性があったか、自覚していたかといった話になる。そうではなく、きちんと原因、背景なりを取り上げて、同じ事故あるいは同じシナリオの事故が起きないようにすることの方がもっと大事だ。何かにレッテル張りをしてしまうのは分かりやすいが、非常に大きなものを欠落させる結果となり、また別の災害が起きてしまうことになりかねない。

 予見可能性や自覚があろうとなかろうと、これだけの事故が起きているのにだれも責任をとらないというのはおかしい、という声があるのは当然だと思う。われわれも責任ということを全く考えていないということではない。ただ、調査・検証委員会がそうした声に寄りかかってしまうと、学ぶべきことも学べないということだ。

 日本という国は何が起きても責任という視点から物を見ないのか。責任を自覚して動く人間はいないのか、と外国から見られているとしたら、そんなことはない。今回の事故でも責任を感じ、死を覚悟しながらきちんと行動している人たちがいた。今の段階で、東京電力が自分から自分の責任を認めていないことに対しては、「おかしい」と言わないといけないとは思う。ただ、それは事故の調査・検証とは別のことだ。

 今回の事故に関しては、組織事故だという考え方が必要だと考える。だれかのせいということではなく、どういう人であろうとそういう判断、行動になっただろうという捉え方だ。そうでないと、また別の形のシナリオで事故が起こってしまう。

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会〈政府事故調〉委員長 畑村洋太郎 氏
畑村洋太郎 氏
(はたむら ようたろう)

畑村洋太郎(はたむら ようたろう)氏のプロフィール
東京都生まれ。1966年東京大学大学院機械工学科修士課程修了、日立製作所入社、68年東京大学工学部助手、講師、助教授を経て83年東京大学工学部教授。2001年工学院大学教授。01-11年科学技術振興機構失敗知識データベース整備事業統括。11年5月東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会委員長。01年畑村創造工学研究所開設。02年NPO法人失敗学会設立。05年から日本航空安全アドバイザリーグループ委員。著書に「失敗学のすすめ」(講談社)、「危険学のすすめ」(講談社)、「企業と倒産の失敗学」(文藝春秋)など多数。

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