コラム - オピニオン -

地域女性とICT活用の遠隔医療 バングラデシュで実証実験

九州大学大学院システム情報科学研究院 准教授 アシル・アハメッド 氏

掲載日:2016年2月26日

アシル・アハメッド氏
アシル・アハメッド氏

バングラデシュは1971年に独立した南アジアの国である。面積は日本の約4割程度だが、人口は日本よりも多い約1億6,000万人である。そのため人口密度が非常に高い。

バングラデシュをはじめとする発展途上国は、人々の購買力が低いため先進国や世界規模の大企業からはマーケット(市場)とはみなされてこなかった。1日当たりの購買力平価が5US(米)ドル以下の人々は、経済ピラミッドの底を意味するBOP(Base of the economic Pyramid)と呼ばれる。世界のBOP層の人口は約40億人とされる。一人一人の購買力は小さくとも、人口ボリュームの大きさとこれからの経済成長を考えるとポテンシャルの高いマーケットとみることができる。日本では2009年ごろから開発途上国のBOP層をマーケットとして捉えることが一般化した。BOPマーケットで行うビジネスをBOPビジネスと呼ぶ。

途上国のBOP層の人々は、BOPペナルティと呼ばれる「貧しいがゆえに被る経済的不利益」の中に置かれている。例えば、バングラデシュの農村には医者がおらず、村人が医者に行くためには遠距離の移動とコストがかかる。またどの医者に行くべきか正しい情報を知ることも困難である。医者への往復の交通費が、診療費を上回ることも珍しくない。

社会課題解決と社会的利益を追求

BOP層をマーケットとして認識するBOPビジネスは、第一にBOP層の人々の生活や現地の社会課題の改善に資する内容であるべきだ。限られた購買力の中から発生する消費を、ビジネスの側の論理で搾取するようなことは倫理的に問題がある。バングラデシュの農村部は間違いなくBOPマーケットといえる。バングラデシュの農村部での社会課題に取り組み、人々の生活の改善を図る経済活動の代表的な事例が、グラミン銀行による、マイクロファイナンス(小規模金融)を中心としたソーシャル・ビジネス(社会事業)である。ソーシャル・ビジネスとは社会課題を「ビジネスの手法」により解決に導くことだ。ソーシャル・ビジネスの目的は、社会的な課題の解決と社会的利益の追求であり、金銭的な利益追求を主眼には置かないのが一般のビジネスとは異なる点である。

2007年に九州大学とグラミン・コミュニケーショーンズ(グラミン・グループに所属する組織)は研究交流協定を締結し、共同研究を進めている。九州大学からみると、グラミン・グループとの連携により開発途上国のニーズを把握することができ、同時に実証実験を行うための場とパートナーを得るメリットがある。グラミン・グループからみると、ICT(情報通信技術)の技術開発と利活用促進を行う研究者の知見を取り入れることができる。九州大学とグラミン・グループの協定ではさまざまな研究が進められており、その中の一つとして2010年からバングラデシュの農村部に遠隔保険医療サービスを届ける実証実験「ポータブル・ヘルス・クリニック」を開始した。

バングラデシュをはじめとする開発途上国は、国家の予算の医療への割当額が少なく、医者の数が少ない。病院は都市部のみに存在することが通例である。また、患者側は望むだけの医療サービスを受けるだけの収入を持っていない。現状の延長線上では、医療サービスの供給側、需要側の両側に問題があまりにも多くありすぎ、解決は困難といえる。この問題を解消するための研究プロジェクトが「ポータブル・ヘルス・クリニック」である。

写真.ポータブル・ヘルス・クリニックのキットと、ヘルスケア・レディ
写真.ポータブル・ヘルス・クリニックのキットと、ヘルスケア・レディ

地域の女性一人一人が社会起業家に

ポータブル・ヘルス・クリニックではICTを活用した新たな医療サービスを提供するための実証実験を行っている。ポータブル・ヘルス・クリニックは、遠隔医療に健康診断と予防医療を組み合わせたものである。アタッシュケース型の健診用バッグを持ち訓練を受けた「ヘルスケア・レディ」を一定の範囲(半径数キロメートル程度)に巡回させ、受診者の健診データはクラウドにあるデータベースに集約される。ヘルスケア・レディの活動は農村だけではなく、都市部での実験も行っている。受診者のデータに問題がある場合は、データベースの判断をもとに遠隔地の医師が診断し、必要に応じて処方箋を書く。また健診用バッグを使いテレビ電話による医者の診断を受けることも可能である。投薬が必要な受診者は、その処方箋を地元の薬局に持って行き、薬を購入する。

ポータブル・ヘルス・クリニックの実証実験を行っているバングラデシュの農村部では、仮に日本の医療機器を持ち込んでも現地の使用環境に適合せず、機器のメンテナンス(保守管理)もできないため継続的に活用することが困難になる場合がある。そのため、現地のニーズを把握し、その環境に適合したプロダクト(製品)やサービスを考案することが重要である。またポータブル・ヘルス・クリニックでは、サービスの普及促進についてはソーシャル・ビジネスとしてデザインしている。ヘルスケア・レディはサービスの利用者から料金を徴収して生計を立てる。健診用バッグの購入など初期費用はグラミン銀行からのマイクロ・ファイナンスを利用することが可能である。つまり個々人がソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)なのである。

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バングラデシュから日本、世界へ展開も

ポータブル・ヘルス・クリニックは、既にバングラデシュ以外の国での実験も行っている。そして、このように開発途上国で実証された技術とシステムは「リバース・イノベーション」(注)として日本などの先進国でも応用されることになるだろう。ポータブル・ヘルス・クリニックは、今後、高齢化が進み医者がいない地域が増えることが予想される日本の離島や中山間地での運用を視野に入れている。さらに大規模な震災などの被災地での応用にも大きなポテンシャルを持っている。

開発途上国を舞台として創造され鍛えられた新しい技術とソーシャル・ビジネスが先進国で普及するモデルは今後珍しいことではなくなるだろう。ポータブル・ヘルス・クリニックがその実例となるべく研究を続けていきたい。

(編集者注)リバース・イノベーション:途上国で生まれた技術革新やアイデアが先進国に導入され、世界に普及すること。

アシル・アハメッド 氏

アシル・アハメッド(ASHIR AHMED)氏プロフィール
1970年バングラデシュ生まれ。92年大分工業高等専門学校卒。94年山梨大学工学部電子情報工学科卒。99年東北大学大学院情報科学研究科博士課程修了。東北大学、米国アバイア研究所(元ベル研)、NTTコミュニケーションズなどでの研究開発活動を経て、2007年九州大学高等研究機構次世代研究スーパースター養成プログラム(SSP)学術研究員(特別准教授)、11年から現職。東北大学大学院修士課程の時に知り合った日本人と、幼少時を過ごした郷里の村で子供の教育、環境教育を行う事業を始めた。バングラデシュでユニークな融資活動を始めたグラミン銀行の創設者でノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏と06年に知り合い、情報格差をなくすためにグラミンファミリーの一企業である「グラミン・コミュニケーションズ」 が設けた「グローバル・コミュニケーションセンター・プロジェクト」のプロジェクトディレクターに任命された。以来、グラミン・コミュニケーションズと九州大学の共同事業をバングラデシュで進めている。

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