コラム - インタビュー -

「ハード優先からソフト重視の治水へ」
第2回「知識偏重、解析万能の技術者教育見直しを」

河川工学者、2015年日本国際賞受賞者 高橋 裕 氏

掲載日:2015年10月29日

9月中旬に関東、東北地方を中心に襲った豪雨被害で、流出されそうな家屋の屋根などからヘリコプターで救助される被災者のテレビ映像に見入った人も多かったに違いない。大きな河川の堤防が決壊するという事態を日ごろ全く想像もしなかった人もいたのではないだろうか。河川工学者として現場を観察することの重要性を指摘し、かつ長年、実践し続けてこられた高橋裕(たかはし ゆたか)東京大学名誉教授(今年の日本国際賞受賞者)に、多くの日本人が忘れていることは何か、日本の技術者教育のあるべき姿などについて、聞いた。

高橋 裕 氏
高橋 裕 氏

-日本国際賞の受賞記念講演でご自身の業績はさっぱり話されず河川工学の先輩方の業績ばかり紹介されていましたね。

私の恩師である安藝皎一についても、講演で紹介させてもらいました。安藝先生は東京大学第二工学部の教授は併任で、本務は資源調査会の初代事務局長だったことは前に話した通りです。内務省の技術官僚として日本だけでなく中国の河川現場を数多く見てきた経験を持っていました。講義は黒板に何かを書くということはせず、数式の紹介や解析を教えることもしません。当時、河川工学の講義と言えば、河川水理学の解析手法に加え、河川計画や事業の基礎知識を教えるのが大半だったにもかかわらずです。なぜ、これが河川工学の講義なのかと思わせるものばかりでした。

1960年には、ESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)の前身であるECAFE(アジア極東経済委員会)の治水利水局長としてタイのバンコクに赴任します。当時、日本の技術官僚で国連の局長ポストに就いている人はいませんでした。日本国際賞の受賞記念講演で紹介した先輩たちは、皆、公共精神に富んでいたという共通点を持っています。7年間パナマ運河建設に携わり、帰国した後も荒川放水路や信濃川大河津分水の建設工事を指揮した青山士(あおやま あきら)や、台湾で烏山頭ダムの工事を指揮、完成させ、いまだに現地の人たちから非常な尊敬を集めている八田與一(はった よいち)など、進取の気性に富む先達たちもたくさんいます。こうした明治以来の伝統が、安藝のような国際人を生み出す原動力になっているのです。

河川工学さらに言えば土木工学は、今難しい時代にあると思います。大学の土木工学の志願者が減り、名前が良くないからと学科の名前を変えた大学もあります。高校の進路指導の先生でも土木と建築の違いを理解していない方が多いようです。橋を造る仕事がしたいから建築科に入ったという学生があちこちの大学にいるという話も聞きました。

2002年に英国の放送局BBCが、100万人規模という視聴者対象のアンケートをしたことがあります。英国の歴史で最も国に貢献した人は誰か、を尋ねたものです。1位は、チャーチルでした。2位がだれかというとブルネルという人物です。テームズ川の下に初めてトンネルを掘ったことで有名な、19世紀の土木技術者です。橋の技術者としても知られ、さらに当時最大の蒸気船として有名なグレート・イースタン号も設計した多才な人物です。ダーウィン、シェイクスピア、ニュートンなどほかにも偉人がたくさんいる中で、ブルネルが2位ということは、土木技術者、あるいは土木技術に対する英国人の評価の高さがうかがえます。

日本国際賞受賞記念講演中の高橋裕氏(国際科学技術財団提供)
写真.日本国際賞受賞記念講演中の高橋裕氏(国際科学技術財団提供)

-土木工学に対する両国の評価が、どうしてこうも違ってしまったのでしょうか。先生のお話の中で、東京大学第二工学部という聞き慣れない学部名が何度か出てきましたが、これは、どのような学部だったのでしょうか。

東京大学第二工学部は、1942年に創設され、太平洋戦争後の1951年に閉鎖されました。技術者を増やそうという声が高まったことが、創設の理由です。軍事技術者養成という役割も国家的要請もありました。入学試験は全く同じ条件で、本郷にある工学部に入るか、千葉市西部に作られた第二工学部に入るかは機械的な振り分けです。私はたまたま、第二工学部に入れられたということです。閉鎖の理由は、太平洋戦争直後、東京大学内で発言力が高まったマルクス経済学の教官たちが、第二工学部は戦争に協力したと批判したことにあります。戦争協力学部あるいは戦犯学部とまで、言われました。GHQ(連合国軍総司令部)に解体されたわけでもなく、大学が自ら閉鎖したということです。

存続期間はわずか10年足らずだったこともあり、第二工学部出身でその後、東京大学工学部の教授になったのは私1人だけですが、私は、第二工学部の果たした役割は大きかったと思っております。当時は本当に辺鄙(へんぴ)な場所で、御茶ノ水駅から総武線で1時間かかり、電車も20分間隔でしか動いていません。砂ぼこり舞うような土地で施設も木造の粗末なものでした。そうした第二工学部の教育が素晴らしいと実感したのは、1955年に大学院を終了し、本郷の工学部土木工学科の講師になった時です。本郷に来たとたんに驚きました。同じ大学でこれほど教育方針が違うのか、と。

第二工学部発足時に活躍した人に、福田武雄(ふくだ たけお)という教授がいます。本郷の工学部で橋梁(りょう)工学が専門の助教授だったのですが、どうも体よく追い出されたようです。非常に優秀な人で、学術論文は教授に相談せずドイツの雑誌に出すといった行動が、生意気だと思われたようです。本人も工学部から追い出されたということは分かっていたのでしょう。本郷批判は激しかったです。「工学部でやっていることは本当の技術者教育ではない。理学部の亜流でしかなく、自分のやっているのが本物」と、明言していました。私が工学部の専任講師に採用された時にも「本郷に行っても染まらないように」と忠告されたものです。

福田教授に個人的に教えられたことはたくさんあります。「工部大学校の現代版を自分はやる」と言っていました。工部大学校というのは、1871年工部省に設置された工学寮を始まりとし、73年に大学、さらに77年に工部大学校と改称される高等教育機関です。明治政府が招いた英国人ヘンリー・ダイアーの「英国型教育と大陸型教育との統合」という理念が貫かれています。英国人の実務的実践的訓練を重視する教育方式を基礎として、理論・学理をより重視する欧州大陸諸国の教育制度も適宜取り入れる統合型教育モデルを実現しようとしました。

こうした工部大学校の技術者教育から、タカジアスターゼを創製した高峰譲吉(たかみねじょうきち)、東京駅や日本銀行などを設計した辰野金吾(たつの きんご)、琵琶湖疎水事業を計画し、実現させた田辺朔郎(たなべ さくろう)といった人たちが育っています。福田武雄はこうした工部大学校の教育精神を第二工学部で受け継ごうとしたわけです。

福田のこうした思いは、招聘(しょうへい)した教授陣の顔ぶれを見るとよく分かります。前にお話した安藝皎一を河川工学の教授として招いたほか、コンクリート、土木施工の教授に関門海底トンネル所長を経験した釘宮磐(くぎみや いわお)、鉄道工学の教授には鉄道技術研究所長の沼田政矩(ぬまた まさのり)など、現場で実際に大きな仕事を成し遂げた実践的技術者から選んでいます。こうした教授たちの講義は現場体験を豊富に盛り込んだもので実に魅力的でした。その影響から、学生の卒論テーマも現場に即したケーススタディが圧倒的に多かったものです。

創設時の東京大学第二工学部の様子(東京大学生産技術研究所提供)
写真.創設時の東京大学第二工学部の様子(東京大学生産技術研究所提供)

-工部大学校自体は、どうなってしまったのですか。

1886年帝国大学令によって東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学となります。この後、工部大学校の教育の理念、特徴は徐々に失われてしまいました。福田武雄が「理学部の亜流」と批判した東京大学工芸学部の理論・学理重視の流れによって実務的実践的訓練も重視する工部大学校の技術者教育の良さが二の次になってしまったということです。こうした経緯があったために、工部大学校の技術者教育の伝統を取り戻そうとした第二工学部と、本郷の工学部との教官の姿勢、学生気質、学生と教官たちとの関係の違いとなって現われたと思われます。

工学部講師として採用されて初めて本郷に行き、あまりの違いに驚いた、と言いましたが、例えばこういうことです。第二工学部では学生は教授室に気楽に入れました。教授室前の廊下に机を持ち出して、マージャンをするような学生もいたくらいです。さすがにこの時は、この学友は福田教授にしかられていましたが…。しかし、本郷では、教授室に学生が気軽に出入りするという雰囲気はありません。教授たちは規則に厳格でした。用務係に対する態度などにも大きな違いがありました。野生的で自由奔放、教官、学生との触れ合いにも常にリラックスした自由な雰囲気があった第二工学部とは、まるで違っていたのです。

第二工学部については、昨年3月に東京大学出版会から出版された「東京大学第二工学部の光芒」という本に詳しく書かれています。「現代高等教育への示唆」というのが、この本の副題で、その最終章の中に次のような記述があります。

「理論なき実践では、実践、応用上の進歩、発展などが望めない。一方、実践なき理論は、理論のみに閉じこもることによって、理論の応用から得られる社会的貢献が期待できない」

これは、ヘンリー・ダイアーの提案のもとに工部省が創立した工部大学校から、第二工学部の教育方針にも引き継がれた教育理念が、現在の高等教育を考える上でも重要な示唆を与える、ということを言っているのです。つまり、理論重視の大陸型伝統教育と実践重視の英国型実践教育をうまく混合させることが、理論と実践両面の進歩と発展を可能にするという指摘です。

日本国際賞授賞式で高橋裕氏ご夫妻(国際科学技術財団提供)
写真.日本国際賞授賞式で高橋裕氏ご夫妻(国際科学技術財団提供)

‐日本国際賞を主催する国際科学技術財団は、先生の業績を授賞理由の中で「明治以来の堤防による河川改修や開発に伴う流域の変貌によって洪水規模が増大したことを学術的に明らかにし、・・・堤防やダムなどの構造物のみに頼る治水政策を本質的に革新し、雨水貯留・浸透技術なども組み合わせた社会システムとしての流域治水というグローバルに通用する普遍的概念を創出した」とたたえています。これは明治以来、多くの立派な土木技術者が輩出したものの、治水政策全てがうまくいったわけではない、とも読めますが。

大学院生時代に資源調査会の専門委員として1953年の筑後川大水害の現地調査に当たったことは、前に話した通りです。この時、上流山地である熊本県小国の豪雨時降水量と、下流の久留米の洪水位との関係を調べました。明治以降、洪水量の出足が早くなり、かつ上流の降水量が同程度でも下流の洪水位が高くなる、つまり河川改修工事が行われた結果、降水量は同じでも下流の洪水流量が大幅に増加している実態が分かったのです。

これはどういうことかと言えば、明治中期以降の河川改修が、大洪水流でも堤防から外にあふれ出さずに河口から海へと流出させるのを基本としてきたことによるものです。明治以来の社会経済の発展による水田開発や都市化などで、流域内の土地の値打ちが高まれば高まるほど、その地域を絶対に浸水させまいとする方針で治水計画が進行しました。

平野部には相当区間にわたって壮大な堤防が築かれました。確かに、流域内の洪水被害をかなりよく食い止めることができました。しかし、かつては流域内に一時、滞留していた流水も、すばやく河道に到達するようになり、洪水の出足が早くなるとともに、その流量も増大するようになった、ということです。

開発の激しい川ほど、治水への要望は高いので、流量増の傾向も強いことになります。従って、治水事業を熱心に進めた川ほど、中下流部での洪水流量負担は増大するという自己矛盾に直面し、結果としてまれに襲来する大洪水の際に氾濫するのは宿命となったわけです。

第二次大戦直後から伊勢湾台風(1959年)までの15年間に日本各地で相次いだ大水害は、異常豪雨に加え、上流山地の荒廃と、戦中戦後の治水に対する投資が極端に不足していたことが原因と言われました。しかし、実態は、大洪水をも氾濫させないという治水の大方針が破綻したということだったのです。

立派な構造物や施設を造ることを名誉と考えるハード主義が、明治以来、技術者の中に根強く存在し、治水事業もまた堤防やダムを築くことそれ自体が目標であるかのようになってしまったところがあります。しかし、堤防やダムは治水の手段であって目的ではありません。例えば、ダム建設も戦後の復興には貢献した一方で、土砂がたまり、水質悪化などの悪影響ももたらしました。全てがよいことばかりではないのです。治水に限らず、公共事業が機能優先に特化し、人々の感性への配慮を全く欠いていたと批判されてもしようがない面はありました。

-最初のご指摘に戻りますが、治水に直接携わる方々の問題とともに、一般の人々が川はまず氾濫などしないという安心感を持ってしまっているのも現実かと思います。最後に、あらためて今回の水害から得られた教訓は何かをお聞かせ願います。

人口減という日本が直面している難題が、治水の面でも心配です。山間地の人口減少で、水源地の荒廃が進むことは避けられそうもありません。源流、河川上流部の地域インフラの維持が困難になり、中下流部に悪影響を及ぼすことが心配されます。源流から人が消えるだけでなく山が崩れる、川が途切れるなどの国土の危機に、どう対応するかが大きな課題です。

治水は河川改修工事だけでは不十分で、流域内の開発のあり方と密接に関わっていることをまず、河川の専門家、行政の関係者がきちんと考える必要があります。特に自治体はじめ治水に関係ある省庁の治水担当者は、第一に治水が治水施設のみでは全うできないことを肝に銘じて、地域住民や建設技術者以外の専門分野の識者を、治水計画に何らかの形で参加させることが重要です。

ことは技術者教育にも関わってきます。英国BBCの視聴率調査で土木技術者のブルネルが「英国の歴史で最も偉大な英国人」の2位になったという話を紹介しました。日本で同じような調査をしても土木技術者が10位内に入ることなどまず考えられないでしょう。一つには、日本の義務教育が私に言わせると、大学の文学部と理学部の基礎教育をやっているとしか思えないという問題点があります。工学とは何か、技術とは何かを教えていないことが、今の日本ほど公共事業に理解のない国は少ないという結果を招いているのではないでしょうか。そもそも一般の人々には、危険なことはあまり考えたくない真理が働いていると考えるべきです。広義の国土教育、災害大国にふさわしい防災教育が必要で、それを指導し、対策を立てる防災担当者の責任は重いといえます。

高等教育においては、土木工学に対する人気が落ち学科名を変える大学が続出しましたが、学科名を変えるならば従来の学問の枠から飛び出し、環境、地球、社会基盤、そして文化の基礎を培うにふさわしい内容の教育を行うべきです。技術者の社会的役割を師弟が共有する教育の場を築く覚悟も必要です。

構造解析などは教科書を丁寧に解説すればよいことです。しかし、例えば景観などは力学計算で分かるものではありません。丸ごと地域を知るような努力することが、土木技術者には、求められます。力学ばかり設計施工ばかりではなく、公共事業の理念を教えるべきです。

国土保全の技術は、その国、その地域にきわめて個性的な面があります。日本の現場技術と欧州の影響を受けた学問との間には、しっくりいかない点もあります。これから長い年月を掛けて、研究を深めなければ分からないことは決して少なくありません。災害大国日本が、急激な開発に伴う土地利用の急変がもたらす新型災害に襲われる危険は非常に高いのです。今の教育界に見られる知識偏重、解析万能といった傾向を脱し、真の技術者教育を再構築することを願っています。

(完)

(小岩井忠道)

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高橋 裕 氏

高橋 裕(たかはし ゆたか)氏のプロフィール
静岡県興津町(現静岡市)生まれ。1950年東京大学第二工学部卒。55年東京大学大学院(旧制)研究奨学生課程修了、東京大学工学部専任講師。同助教授、教授を経て、87年退官、東京大学名誉教授。87~98年芝浦工業大学工学部教授。2000~2010年国際連合大学上席学術顧問。2000年IWRA(国際水資源学会)クリスタル・ドロップ賞(3年に一度の最高栄誉賞)、2015年日本国際賞受賞。著書に「国土の変貌と水害」(岩波新書、1971年、2015年4月復刊)、「都市と水」(岩波新書、1988年)、「河川工学」(東京大学出版会、1990年=土木学会出版文化賞)、「地球の水が危ない」(岩波新書、2003年)、「川と国土の危機 水害と社会」(岩波新書、2012年)など。

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