鯨類は約5000万年前に陸から海に移り、生命のふるさとの大海の奥深い環境に適応していった。その進化の跡が鯨類の嗅覚や味覚の退化からわかった。ヒゲクジラ類の脳にある嗅球(嗅覚情報が最初に投射される部位)を詳しく調査して、その嗅球に背側の領域が存在しないことを、京都大学野生動物研究センターの岸田拓士(きしだ たくし)特定助教らが突き止めた。
化石の検討で、こうした嗅覚能力の一部の喪失は、鯨類の祖先が陸から水中へと生活の場を移す過程で起きたことを確かめた。新しい環境への適応進化研究に、感覚の変化という重要な視点を示した。米ノースイーストオハイオ医科大学のハンス・テービセン教授、京都大学霊長類研究所の今井啓雄(いまい ひろお)准教授、理学研究科大学院生の早川卓志(はやかわ たかし)さん、阿形清和(あがた きよかず)教授との共同研究で、日本動物学会が今年創刊したインターネット科学誌Zoological Letters2月13日付に発表した。
この研究は、クジラ類の脳の嗅球が他の哺乳類と比べて奇妙な形をしていることに気付いたことがきっかけとなった。東京大学グループの2007年の報告で、変異マウスの嗅球がクジラ類の嗅球にそっくりとわかり、比較研究の道が開けた。化石には、海洋環境適応に伴って嗅球の形態変化の痕跡がはっきり残されていた。
鯨類は約5000万年前の新生代始新世に、ウシやカバなどの偶蹄類から派生した。現生種は、イルカやマッコウクジラなどの歯を持つハクジラと、ミンククジラなどのヒゲ板でプランクトンをろ過して食べるヒゲクジラに大別される。陸上哺乳類にとって嗅覚は生存上欠かせないのに対して、鯨類は嗅覚をほとんど失っていると考えられてきた。実際、ハクジラ類には嗅覚の神経系がない。一方、ヒゲクジラ類は退化していながらも、嗅覚に必要なすべての神経系を備えている。
このヒゲクジラ類の嗅覚はどのように退化しているのか、は疑問だった。ヒゲクジラ類は大きすぎるため、人類が現在飼育できない唯一の哺乳類の仲間で、行動実験が難しかった。そこで研究グループは、ヒゲクジラ類の嗅球の形態を組織学と比較ゲノム学の両面から調べた。ヒゲクジラ類の嗅球には背側の領域が存在しないことを確かめた。嗅球の背側領域を除去した変異マウスは、天敵や腐敗物のにおいを忌避する行動を示さない。ヒゲクジラ類も、進化の過程でこうした忌避行動につながる嗅覚能力を失ったらしい。また、すべての現生鯨類は、甘味やうま味、苦味を感知するための遺伝子を失っていることも解明した。
ゲノムの比較によると、鯨類は、嗅覚、味覚ともに、ハクジラとヒゲクジラに分岐する前の始新世に、陸上哺乳類の感覚から大幅に退化したことがうかがえた。一連の進化のシナリオは、鯨類の生態に照合すると極めて合理的という。一生を海中で過ごす鯨類にとって、トラやライオンのような陸の天敵はもはやいない。天敵のサメやシャチは空中のにおいでは感知できない。さらに、鯨の鼻孔は頭頂部にあり、口に入れようとするものが食べられるかどうか、においを嗅いで判断できない。鯨にとって嗅覚で腐敗物や天敵を避ける必要性は薄らいでいるのだ。
研究グループの岸田拓士さんは「ヒゲクジラ類のクロミンククジラのゲノム(全遺伝情報)を世界に先駆けて解読して、他の動物とゲノムレベルで比較できるようにして解析した。鯨の海洋環境への適応進化に伴う、嗅覚や味覚の退化の一端がわかった。ヒゲクジラが嗅覚の一部を残しているのは、えさのオキアミや小魚の群集を、海上の空気のにおいから嗅ぎつけているのではないか。そうした残された謎も解明していきたい」と話している。
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