アカエゾマツは北海道を代表する針葉樹の一種。過酷な環境下でも生育し、1年中葉が落ちないため、防風林や防霧林として多く植栽されてきた。その一方で成長が遅く建材としては使いにくいため、健全な森林管理が難しく、手入れ不足の森林では災害時のリスクも高まっていた。そんなアカエゾマツの新たな効能を発見し、獣医学と林業がタッグを組んで活動するユニークな団体がPine Graceだ。多様なバックグラウンドを持つ人たちが協力し、アカエゾマツから精油や動物用製品、燃料を製造するなど、幅広い活用に取り組んでいる。
管理や活用が難しいアカエゾマツ
北海道の森林面積は約554万ヘクタールで、北海道の土地面積の約70パーセントを占める。道民1人あたりの森林面積は全国平均の約5倍で、豊かな生態系を育む森林を守り育て、次世代に引き継ぐことは北海道において重要な課題の一つだ。
北海道の森林のうち人工林は27パーセント程度で、マツをはじめとする針葉樹が主体。最も多いのがカラマツ、次がトドマツ、そして3番目がアカエゾマツをはじめとしたエゾマツ類だ。このアカエゾマツは劣悪な環境でも生育するので、防風や防霧などを目的として多く植林され、北海道内に約18万ヘクタールの人工林が存在する。
しかし、アカエゾマツは成長が遅いうえに間伐材は加工が難しく、耐久性と強度の観点からも建材として利用しづらいという欠点があった。人工林を保持していくためには間伐など適度な手入れが不可欠なのだが、間伐材の使い道がないと、手入れの手間と費用がかかるだけになってしまう。ゆえに北海道各地のアカエゾマツ林は放置されがちで、その状態が続くと林に差し込む日光が遮断されて木々や下草などの健全な成長を阻害し、結果として強風や大雨への耐性が低下して災害時のリスクが高まることになる。
この課題を改善するためには「アカエゾマツの間伐で収益が出るようにすることが必要です」と酪農学園大学名誉教授でPine Graceの代表理事を務める横田博さんは語る。
地域と森林を愛する4人が集結
Pine Graceのメンバー4人に共通するのは、地域と森林を愛する気持ち。出会いには偶然が重なったという。
看護師として働いていた酒巻美子さんは、「患者さんを何人もみとるうちに、病気になる前に予防することが大切だと思うようになったんです」と当時を振り返る。あるとき川湯温泉にある「アカエゾマツの森」を散策した酒巻さんは、気持ちの良い香りに癒やされることに気付いた。北海道が認定する木育マイスターの研修会で出会った横田さんにその話をすると、獣医学を専門とする横田さんは、精油には一般的にストレスを改善する作用があるので、アカエゾマツをもっと深く研究したいと思ったという。
翌年、弟子屈で行われたイベントで、大学研究員として地域研究をしつつ、林野庁職員として北海道の森林管理を担当していた土居拓務さんと横田さんが出会う。そこから「アカエゾマツ同好会」という任意団体が立ち上がり、2017年にはPine Graceが設立された。
Pine Graceの発足後、土居さんと林野庁同期で道東地域の森林管理の経験もある本田知之さんも参画。この4人を中心に、Pine Graceの取り組みはさらに多様なステークホルダーを巻き込み、現在もどんどん発展している。
抗菌性を生かして商品を開発
酒巻さんの話を聞いて、横田さんはまず人の唾液中のストレスホルモン(コルチゾール)を測ってみた。「すると、アカエゾマツの香りをかいでから30~40分ほどでストレスホルモンが5分の1くらいに減少、ストレスの改善が見られました。本当に驚きましたね」と振り返る。
さらに、他の研究者にも依頼して研究を進めていくうちに、アカエゾマツの葉から抽出した精油は非常に幅広い菌種に対する抗菌性を持っていることが判明した。いろんな病原体に対して抑制効果があることがわかり、中でもカビなどの真菌に対して特に有効で、ウシの皮膚病の改善に絶大な効果を発揮した。
精油を製品化できれば間伐材で収益を得られるようになり、積極的に間伐が行われるようになるだろう。そこで横田さんは、同僚を通じて動物用医薬品の大手である日本全薬工業に実験結果を提示。「抗生物質が入った従来のワセリンよりも優れているということで、大変驚かれました」(横田さん)。それから商品開発が進められ、2021年9月にアカエゾマツの精油を含む動物用ワセリン「Spruce Essential Oil PGアロマ」が発売された。
日本の獣医学では抗生物質が多く用いられてきたが、近年は薬剤耐性菌(AMR)などの問題が指摘されていて、WHO(世界保健機関)からも改善を促されている。しかし、天然の素材を用いた薬剤であればこうした耐性菌の発生のリスクは低い。「アカエゾマツを利用することで、地域課題だけでなく製薬業界の課題の解決にもつながるかもしれません」と横田さん。
そのほか、家畜だけでなく人間に効く医薬品の開発を目指す研究も進められている。
地域と連携して製造体制を構築
アカエゾマツの蒸留で使うのは、市販されている小型の蒸留器だ。工場で使うような大型の設備を導入する資金がなかったためだが、それゆえに誰もが気軽に始められるというメリットがあった。
「定年退職した後の方や子育て中の女性に蒸留をお願いしていたところ、近隣の町長さんから『障がい者の方々の就労支援にどうか』という話をいただいたんです」と酒巻さん。それまで雪に覆われる冬季の雇用確保が課題だったが、アカエゾマツは常緑樹なので一年中枝葉が手に入る。そこで地元の福祉施設と連携して、各人ができることを分業制でやってもらうようにした。
アカエゾマツの蒸留は地域に2人の雇用を生み出し、さらに、道東地域の3つの社会福祉施設と連携し、障がい者の方々に精油生産の仕事をお願いするという「林福連携」体制を構築した。障がい者雇用や就労支援にも貢献しているのだ。
こうして製造された精油は、Pine Graceのウェブサイトから購入できる。「今は精油のみですけれど、香り成分を含んだ蒸留水などの副産物についても、今後商品にしていきたいと考えています」と酒巻さんはさらなる進展を視野に入れている。
多様な人々と活動の輪を広げていく
Pine Graceの活動は、獣医学と林業という異業種の組み合わせであると同時に、特定の団体や地域に限定されず、活動の輪がどんどん多様な人を巻き込んで広がっている。
例えば、蒸留に使う枝葉は、阿寒で広大なアカエゾマツ林を保有する前田一歩園財団から無償で譲り受けている。出会いは前田一歩園にも木育マイスターがいたことだが、アカエゾマツの効力が科学的根拠によって証明された点が後押しとなり、協力を得られるようになったという。
また、弟子屈蒸留所ではアカエゾマツの蒸留体験も実施していて、近隣のみならず遠方から訪れる人もいるという。学生を対象とした体験合宿も行われているほか、標茶高校では蒸留器が設置され、蒸留の指導は酒巻さんが担当した。
2021年度の「STI for SDGs」アワードで優秀賞を獲得し「エコプロ2021」に出展したことがきっかけで、近畿大学バイオコークス研究所の井田民男教授と連携して、アカエゾマツを原料とするバイオコークス(人工的に製造された石炭)の試作も行われた。「うまく付加価値を生み出すことができれば、商品化できる可能性もあると思います」(横田さん)
人の心を動かし、やがて社会を動かす
間伐材を積極的に利用することで、木々に陽があたり、本来の機能が守られ、災害対策としても健全な森林になる。このように新たな価値を見いだすことは健全な森林管理につながるだけでなく、地方創生や林業振興に結びつくだろう。Pine Graceのメンバーも、それを視野に入れている。
土居さんは「私たちの取り組みをうまく横展開させることで、日本の林業振興に貢献したいですね」と未来を見据える。横田さんも「私たちの研究で良い機能が見つかったらその地域にご紹介して、持続可能な林業の構築を支援していきたいと考えています」と展望を描く。現在、アメリカのシアトルから活動を支援する本田さんは、「夢を持って森林と付き合っている方は多く、そんな皆さんがわくわくしながら夢を語れる、面白いことをやっていけると、世界にも広く発信していきたいと思っています」と語る。
世代も職業もバックグラウンドも異なる人々がアカエゾマツの活用を目指して集い、自らの特性を生かして、楽しみながら活動を進めるPine Grace。「私たちの活動にちょっとでも関心をもってもらえるとうれしい」と酒巻さんは言う。地域と森林を愛するメンバーたちの発信は、これからも数多くの出会いを生み出し、人々の心を動かし、さらに輪を広げ、やがて社会を変えていくに違いない。
一般社団法人Pine Grace
北海道のアカエゾマツ資源の有効活用を目指し、横田博・酪農学園大学名誉教授らが中心となって2017年に設立。アカエゾマツがもつ成分に関する基礎・応用研究、製品の開発ならびに製造販売、研究成果のアウトリーチ活動などを行う。