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進行がんの全身悪化に関わるタンパク質を発見 理研、生存率やQOL改善に期待

2023.06.06

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト

 がんが進行すると体重減少や食欲不振などを起こして全身症状が悪化する。多くの進行がん患者に見られるこうした状態は「がん悪液質」と呼ばれる。「液」というと体内に何か液状の物質が生じるイメージだがそうではない。がんの進行に伴って現われる症状の総称、症候群だ。

 がんの予後に悪影響を及ぼすこのがん悪液質の研究は遅れていた。さまざまな生理的異常が絡んだ複雑な障害である上、解析手法も確立していなかったためだ。そうした中で理化学研究所(理研)の研究グループは、ショウジョウバエを使った実験モデルで、がん細胞が出す「ネトリン」というタンパク質が関わっていることを突き止めた。

 このタンパク質ががん細胞から離れた体内の組織に作用し、全身症状を悪化させているという。研究成果は進行がん患者の悪化した全身症状の治療に貢献し、生存率向上や「生活の質」(QOL)の改善につながる可能性があると期待されている。

ショウジョウバエの幼虫のがん細胞から分泌されたネトリンが離れた組織に作用することを示す画像(理化学研究所提供)
ショウジョウバエの幼虫のがん細胞から分泌されたネトリンが離れた組織に作用することを示す画像(理化学研究所提供)

古代医学書に記述ありながら解明遅れる

 現在、がんが発生する仕組みについてはさまざまな研究が行われている。細胞のがん化を防ぎ、がん化した細胞、がん組織を除去する新たな治療法の開発も進められている。こうした医学、医療の進歩により、5年、10年生存率も向上した。しかし膵臓など一部のがんや進行がんの治療成績は依然良くない。

 がん悪液質と呼ばれる筋肉や脂肪の減少といった全身症状は進行がん患者の80%以上に認められ、予後に悪影響を及ぼす。理研の研究グループによると、悪液質の存在は古代ギリシャの医学書にも記述がある。「cachexia」という医学用語の訳語で明治時代に訳されたまま現在も使われているとされる。

 悪液質はがん以外の病気にも見られるため、進行がんに伴う場合はがん悪液質と呼ばれる。骨格筋などの筋肉や脂肪の減少による体重減少と食欲不振が代表的症状で、うつや不安といった「心の衰弱」を伴うこともあるという。

 がん悪液質は、患者ばかりでなく、治療する医師も悩ませる極めて厄介な存在だ。だが、これまで個体を使った研究、解析が難しいことなどから、患者の生死に関わるこの症候群の仕組みを解明する研究は立ち遅れていた。

悪影響を与えるのはがん細胞そのものではない

 理研・生命機能科学研究センターの岡田守弘研究員とユ・サガン・チームリーダーらの研究グループは、複雑な生理的異常を個体レベルで解析するのに適したショウジョウバエを実験モデルに選んだ。

 次にヒトのさまざまながんで変異が確認されているがん遺伝子の一つの「Ras遺伝子」に着目した。そしてショウジョウバエの幼虫の将来眼になる組織に変異型Ras遺伝子を発現させてがんの実験モデルをつくった。成虫の眼に生じたがん細胞は転移や増殖はしなかったのに、数日以内に80%以上のショウジョウバエが死んだ。

 このことから研究グループは、「全身に悪影響を与えるのはがん細胞そのものではなく、がん細胞が分泌する物質」という仮説を立てた。詳しい解析を続けた結果、悪影響を与える20種類の物質候補が浮かんだ。これらの物質すべてについて遺伝子発現を阻害して物質ができないようにする実験を続けたところ、がん細胞が分泌するネトリンの発現をがん細胞で抑えると個体の生存率が著しく上昇した。

 ネトリンは神経回路の形成に関わる物質として知られてきた。研究グループはネトリンだけを蛍光タンパク質で可視化できるようにした。すると、ネトリンは、哺乳類の肝臓や脂肪に相当し、代謝の維持に必要不可欠なショウジョウバエの脂肪体組織に作用して、カルニチンという物質の産生を抑制することも確かめたという。

理化学研究所の研究グループの岡田守弘さん(左)とユ・サガンさん(理化学研究所提供)
理化学研究所の研究グループの岡田守弘さん(左)とユ・サガンさん(理化学研究所提供)

エネルギー不足から衰弱、死に至る

 カルニチンは細胞内の脂肪酸をエネルギーに変えるという重要な働きをする。研究グループの一連の実験、解析結果から、ネトリンがカルニチン量を低下させ、エネルギー不足を引き起こして衰弱し、死につながることが明らかになった。

ネトリンが離れた組織(脂肪体組織)に作用してカルニチンの産生を抑え、エネルギー不足を起こしてショウジョウバエ(個体)の死に至ることを示す概念図(理化学研究所提供)
ネトリンが離れた組織(脂肪体組織)に作用してカルニチンの産生を抑え、エネルギー不足を起こしてショウジョウバエ(個体)の死に至ることを示す概念図(理化学研究所提供)

 ネトリンの働きを抑えると、がん細胞自体には影響しないものの、カルニチン量が上昇して生存率が著しく向上することが判明。がんになったショウジョウバエに不足しているカルニチンや、カルニチンの働きで作られるアセチル「CoA」という物質を補うと生存率が回復することも分かったという。

 がん患者はがんの進行とともに、血液や尿中のネトリン量が上昇し、血液で検出されるカルニチン量が低下することが知られている。ネトリンとカルニチンの関与はヒトでも当てはまる可能性が高いとみられる。

 仮にがん細胞自体をなくせなくても、がん細胞から離れた組織の代謝状態を変化させる。そのことだけでも個体の死を回避できる可能性があることが明らかになった。

ネトリンの働きを抑えるとショウジョウバエの生存率が向上したことを示すグラフ(理化学研究所提供)
ネトリンの働きを抑えるとショウジョウバエの生存率が向上したことを示すグラフ(理化学研究所提供)

進行がんの生存率は目立って低い

 国立がん研究センターは3月15日に全国のがん診療連携拠点病院などで2014~15年にがんと診断された人の5年後の生存率を発表している。最新の生存率(相対生存率)は66.2%だった。過去の生存率比べて数値は少しずつだが、着実、確実に改善されている。

 計447施設、約94万人分の「院内がん」データ集計によると、がんの種類別の傾向はこれまでと大きな変化はなく、男性の前立腺がん95.1%、女性の乳がん91.6%と高い一方、小細胞肺がん11.5%、膵臓がん12.7%と低い。

 5年生存率が高い前立腺がんも進行度別に細かく調べると、Ⅰ期、Ⅱ期は100%だが、Ⅳ期になると60.1%に下がる。また乳がんもⅠ期、Ⅱ期は90%台だが、Ⅳ期は39.8%に大きく下がる。進行がんは生存率が目立って低いことが分かる一例だ。

前立腺がんの5年生存率。全体では高いが進行度Ⅳ期は約60%に下がる(国立がん研究センター・がん対策研究所・がん登録センター提供)
前立腺がんの5年生存率。全体では高いが進行度Ⅳ期は約60%に下がる(国立がん研究センター・がん対策研究所・がん登録センター提供)
乳がんの5年生存率。進行したⅣ期になると約40%に大きく下がる(国立がん研究センター・がん対策研究所・がん登録センター提供)
乳がんの5年生存率。進行したⅣ期になると約40%に大きく下がる(国立がん研究センター・がん対策研究所・がん登録センター提供)

 がんの進行度も部位によってさまざまだ。例えば前立腺がんは進行が遅くⅢ期、Ⅳ期で見つかる患者はそれぞれ15%程度で少なく全体の生存率を高めている。一方、小細胞肺がんはがん細胞の増殖速度が高く、進行が早い。膵臓がんは、初期は症状が出にくく、発見時は既に進行しているケースが多い。

全身症状の改善は医療上の意義が大きい

 残念ながらがんが進行した患者の生存率は低い。進行がん患者の予後に大きな影響を与えるがん悪液質には複雑な要因が関係しているとみられる。食欲が低下すれば体力は落ちる。抗がん剤投与による化学療法やがん細胞に放射線を当たる放射線療法は一定程度の体力を要する。

 がん専門医によると、新しく開発された薬や効果的な放射線療法があっても衰弱した体が耐えられず、こうした治療法が受けられずに亡くなるケースは多いという。がん悪液質対策はがん医療の大きな課題だ。

 がん細胞が出す「サイトカイン」と総称される低分子のタンパク質が脳に作用して食欲を低下させるとする研究成果もある。また食欲を促すなどの作用がある「アナモレリン」という薬が2021年1月に承認され、使用されている。よく分からなかったがん悪液質という厄介者に対する研究は少しずつ進んでいる。

 今回明らかになったネトリン、カルニチンの関与解明は将来治療薬に結びつく可能性がある。つまり、がんを退治できなくても余命を長くできる方法につながる可能性がある。がんが進行しても全身症状を改善できれば生存率の向上にもつながる。がん医療上の意義は大きい。

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