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理研など、人工冬眠の医療応用に向けマウスで成果 心臓手術時に腎臓への負担を軽減

2022.12.07

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト

 患者を一時的に「冬眠状態」にしてより安全に心臓などの手術を行う――。SFの世界では「コールドスリープ」と呼ばれる「人工冬眠」。その状態をつくることで難しい手術以外にも代謝や酸素・エネルギー需要を下げ、患者の臓器や組織が受ける障害を最小限にする研究が進んでいる。延命措置や臓器保存といった医療分野のほか、有人宇宙探査への応用も期待されている。

 理化学研究所(理研)と京都大学の研究グループは11月14日、マウスの脳にある特定の神経を刺激して人工冬眠状態にし、心臓血管手術時に腎臓への負担を軽減できる可能性を確認したと発表した。理研と筑波大学の研究グループが2020年に「人工冬眠実験マウス」をつくった実績を生かした成果で、医療応用に向けて前進させた。

人工冬眠技術の応用例のイメージ(理研・筑波大学提供)
人工冬眠技術の応用例のイメージ(理研・筑波大学提供)

長い間、SFや夢の世界の話

 脊椎動物の中でも哺乳類は代謝を制御することにより37度前後の体温を保つ。つまり「恒常性維持」の仕組みを持っているが、一部の種は冬の寒冷期や飢餓状態になると自ら代謝を下げて体温を低下させることができる。このように制御された低代謝が休眠で、24時間以内の休眠は日内休眠、季節性の休眠は冬眠と呼ばれる。

 冬眠の研究は古く、16世紀ごろにさかのぼるとされるが、心電図や脳波を計測できるようになって研究は進んだ。冬眠する哺乳類は食料が不足する寒い時期をしのぐため“省エネ状態”を保ち、栄養が乏しい環境を生き抜く。しかしそのメカニズムはよく分かっていなかった。ましてや冬眠動物の利点を人間の医療に応用する研究は長い間手付かずだった。

 SF作品に登場するコールドスリープは、人体を冷凍保存して生命を維持しながら長い間老化を防ぎ、目覚めた時は時間だけが経過する。例えば宇宙船による惑星間移動の間も老化しない想定で「2001年宇宙の旅」などの多くの映画にも登場する。しかし、現実の世界では体を冷凍すると水分が凍って細胞が破壊されてしまうため、実社会での応用は長い間夢の世界の話だった。

 人間は冬眠しないどころか、体温が平熱より1~2度上がっただけでも体調に影響する。このため体温低下を誘導する必要がある人工冬眠の研究を人体で行うのは不可能だった。冬眠動物としてクマが有名だが、実験動物の大半を占める小型のマウスや大型のラットは冬眠しないため研究が遅れていた。自在に人工的に冬眠させることができる小動物がどうしても必要だった。

哺乳類は体温を維持するために多くのエネルギーを消費するが、クマなど一部の種は冬の寒冷期や飢餓状態になると自ら代謝を下げて体温を低下させることができる(理研・筑波大学提供)
哺乳類は体温を維持するために多くのエネルギーを消費するが、クマなど一部の種は冬の寒冷期や飢餓状態になると自ら代謝を下げて体温を低下させることができる(理研・筑波大学提供)

研究を前進させた実験マウスの誕生

 応用研究を大きく進める契機になったのは人工冬眠する実験マウスの誕生だ。2020年6月に筑波大学医学医療系の櫻井武教授と理研生命機能科学研究センターの砂川玄志郎・基礎科学特別研究員(当時)らの研究グループが、本来は冬眠しないマウスやラットの脳にある「休眠誘導神経(Q神経)」と名付けた細胞を刺激して冬眠に近い状態を作り出すことができた、と英科学誌ネイチャー(電子版)で発表した。

 研究グループによると、Q神経は体温調整や睡眠などをつかさどる脳の視床下部にある。Q神経をある薬剤で刺激して人為的に興奮させると平常は37度付近のマウスの体温は大きく低下し、代謝の働きを示す酸素の消費量も大幅に減った。薬剤を止めると冬眠状態だったマウスは約1週間で平常の状態に戻ったという。低代謝の状態は「QIH」と名付けられた。

 この一連の研究により、多くの哺乳類にあるQ神経を刺激すると通常は冬眠しない動物を人工冬眠させることができることが判明。人工冬眠する実験マウスを手に入れることができたことになる。

 研究成果の発表当時、櫻井教授らは「冬眠しない動物を人工的に冬眠させ、冬眠時のような低代謝状態であるQIHは、これまで不明だった冬眠誘導メカニズムの解明に向けて重要な鍵となる。人間の人工冬眠も現実味を帯びてくる」としていた。

画像左上は通常時のマウス、左下は冬眠状態のマウス。画像右はサーモグラフィー画像。右上の通常時マウスと比べ冬眠状態マウスは体温が低下している(筑波大学・櫻井武教授/理研提供)
画像左上は通常時のマウス、左下は冬眠状態のマウス。画像右はサーモグラフィー画像。右上の通常時マウスと比べ冬眠状態マウスは体温が低下している(筑波大学・櫻井武教授/理研提供)

低体温にしなくても障害を予防

 その後2年以上経過し、研究も進んだ。今回、理研生命機能科学研究センターの砂川、升本英利両上級研究員と京都大学大学院医学研究科博士課程学生らの研究グループは、これまでの人工冬眠の研究を安全な心臓血管手術などの実現に向け大きく前進させた。

砂川玄志郎上級研究員(左)と升本英利上級研究員(理研提供)
砂川玄志郎上級研究員(左)と升本英利上級研究員(理研提供)

 厚生労働省によると、日本では心疾患による死亡者はがんに次いで多く、2019年の死亡率は人口10万人当たり168人。日本胸部外科学会によると、17年の年間心臓血管手術件数は約7万件だが、手術時死亡率も例えば急性大動脈解離が10%近くもある。これは手術時には循環停止する必要があるためで、5~50%に腎障害(周術期急性腎障害)が起きるという。

 升本上級研究員らによると、大動脈手術の際は腎障害を減らすために人工心肺装置で血液を冷やして体に戻しながら低体温の状態で臓器を保護する。血液が流れなくなった臓器は低酸素状態になって負担が増すため、低体温にして代謝を下げ、酸素消費量を減らす。しかし、手術時間は長くなり、感染や出血などの問題も起きやすい。

現在、大動脈手術時に行われている循環停止(図右)と人工心肺による循環補助(図左)の模式図。将来、人工冬眠技術が応用できれば臓器損傷リスクは低下すると期待されている(理研・京都大学提供)
現在、大動脈手術時に行われている循環停止(図右)と人工心肺による循環補助(図左)の模式図。将来、人工冬眠技術が応用できれば臓器損傷リスクは低下すると期待されている(理研・京都大学提供)

 研究グループはこうした問題を人工冬眠技術で解決できないかと考えた。そして2020年の研究成果を生かして人工的にQ神経を操作できるQIHマウスを作成。実際の血管手術を想定して大動脈の血流を遮断して虚血状態にした。すると、QIHマウスは低体温にしなくても腎障害を一定程度予防できることを確認した。

短時間の「優しい手術」が可能に

 理研や京都大学の研究グループが先月発表したこの成果は、低体温にしなくても人工的に冬眠状態をつくって代謝を抑えることができれば臓器保護効果につながる可能性を示した。理研の砂川、升本両上級研究員らは「今後、人間でもQIHを誘導する手法が開発できれば将来、循環停止を伴う心臓血管手術時に低体温で循環停止させることなく腎臓保護を実現できる可能性がある」と強調している。

冬眠状態の誘導による心臓血管手術時の腎臓保護効果の模式図(理研・京都大学提供)
冬眠状態の誘導による心臓血管手術時の腎臓保護効果の模式図(理研・京都大学提供)

 升本上級研究員は記者発表で次のように話した。「日本だけでなく世界的に動脈硬化の人が増えているため動脈の手術も増えている。日本での大動脈手術は年間2万件あるが今後さらに増えるだろう。平均寿命も延びて手術前から臓器障害がある人が多くなっている。こうした高齢者の手術が増えると一層手術時に障害を抑える戦略が必要になってくる」「(リスクがある)低体温状態にしなくても(人工冬眠による低代謝によって)短時間で手術ができれば患者にとって優しい手術が可能になる」

 人工冬眠の医療への応用は、心臓血管手術だけではない。例えば、重度の肺炎になるとさまざまな臓器に酸素が行き渡らなくなるため人工的に酸素を補給する。その場合、人工呼吸器などを装着するまでの間、人間を冬眠状態にできれば臓器の酸素消費量は減り臓器の損傷リスクも低下する。このほか移植手術にも貢献できるという。

 有人宇宙探査の対象は宇宙開発技術の進歩に伴って月から火星などの惑星へと広がっている。筑波大学の櫻井教授らは、将来酸素や飲食物が限られる宇宙探査の分野でも貢献できる技術になり得るとの見方を示している。人類が人工冬眠の技術を手に入れるのはそう遠くないかもしれない。

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