サイエンスクリップ

北京五輪ジャンプ男子NH、小林陵が金 強さの秘密「富岳」が解き明かす

2022.02.07

草下健夫 / サイエンスポータル編集部

 北京冬季五輪のスキージャンプ男子個人ノーマルヒルが6日行われ、小林陵侑(りょうゆう)選手が本大会日本勢初の金メダルに輝いた。五輪ジャンプ個人の金メダル獲得は実に、1998年長野冬季五輪ラージヒルの船木和喜さん以来という。多くの日本人をテレビに釘付けにしたこの快挙の背景には、独特の飛行姿勢で揚力をしっかり味方につけるなどの極意があることを、大会前、日本が誇る世界一のスーパーコンピューター「富岳」が解き明かしていた。

まるごと空力シミュレーション

小林陵侑選手の飛翔(北翔大学、神戸大学、理化学研究所提供。北京冬季五輪のものではない)

 スキージャンプは助走や踏み切りを利用してジャンプ台から飛び出し、飛行距離の長さと飛形、着地の美しさを競う。空気の力の働き方、選手の体格や動作の個性が大きく響く独特の競技だ。北翔大学(北海道江別市)生涯スポーツ学部の山本敬三教授(運動力学)は「選手は年間のうち限られた日数しか飛ぶ練習ができない中で、自分に合う飛行姿勢を試行錯誤して目指している。選手個人に合った情報を入れたいと、学生時代にジャンプの研究を始めた」という。山本教授はトップレベル競技者の訓練施設「ナショナルトレーニングセンター」のスタッフも務めている。

 日本人選手の強化につなげようと、山本教授は神戸大学大学院システム情報学研究科の坪倉誠教授(理化学研究所チームリーダー、流体工学)と、2009年に共同研究を始めた。

 研究グループは、金メダルの有力候補とされていた小林選手の分析を進めた。まず体格を計測。センサーを付けたスーツを着てもらい、動きを捉えてデータ化する「モーションキャプチャー」の技術などにより、小林選手と比較対象の選手の、踏み切りから着地までの動きを連続して捉えた。これを基に3DのCGアニメーションを作成。さらに理研の富岳とソフトウェアを使い、体の周りの空気の動きやその影響を解析した。研究グループはこうした手法を「まるごと空力シミュレーション」と呼んでいる。

「今までの考えで語れない。すごく驚いた」

 その結果、小林選手の飛行は次の点で、際立った特徴があることが分かった。まず(1)比較した選手と違い、踏み切り直後、空気が飛行を妨げる力「抗力」が一時的に増大。しかしその後すぐ低下した。そして(2)飛行の後半には、体を持ち上げる力「揚力」が次第に増加した。さらに(3)揚力を抗力で割って飛行性能を示す値「揚抗比」が、比較した選手より早くから高まり、飛行中を通じてほぼ保たれていた。

解析の結果。小林選手の飛行の特徴が明らかになった(北翔大学、神戸大学、理化学研究所提供)

 こうした特徴について、山本教授は次のように見立てている。まず(1)の抗力について。「飛行の初期に、体を持ち上げないようにする選手もいる。これに対し小林選手は体をピンと伸ばして飛び出してから、(体を前傾させた)フライト姿勢に移る。最初に向かい風を多く受け、抗力が増大して不利だが、早くフライト姿勢に移って抗力を下げ、揚力を維持しているのでは」。ただし、こうした姿勢の違いは個性によるもので、決して一方が良いというものではないという。

小林選手は身体をピンと伸ばして飛び出してから、フライト姿勢に移る。体を持ち上げないようにするタイプの選手とは異なる(北翔大学、神戸大学、理化学研究所提供)

 また(2)飛行の後半には、前から来た風が巻きつくように背中側に流れ、気流の乱れが小さく、背中側にかかる圧力を抑えていた。これが揚力の増大につながっているとみられる。気流の乱れが小さい理由はよく分からず、今後の研究課題となった。

小林選手の飛行の後半では、前から来た風が巻きつくように背中側に流れ、気流の乱れが小さい(北翔大学、神戸大学、理化学研究所提供)

 そして(3)の揚抗比について。飛行の後半には一般に、飛ぼうとする向きと空気の流れる向きのなす角度「迎角」が次第に大きくなり、下から風を受けるようになる。力学的に不利な姿勢で、失速のリスクが高まる。ところが小林選手の場合、揚抗比を維持し、揚力を保って飛行距離を伸ばしている。「今までの考えだけで物事を語れない。すごく驚いた」と山本教授。坪倉教授は「同じ姿勢で飛んでいけば普通、失速する。仮説だが、失速しないのは微妙に迎角を変えているからでは」との見方を示す。

飛行の後半には一般に、迎角が次第に大きくなる(北翔大学、神戸大学、理化学研究所提供)

 研究グループはこうした結果を1月下旬にまとめ、小林選手をはじめ日本人競技者、コーチらに広く情報提供した。欧州の学会での発表や、論文投稿の準備も進めている。

「テーラーメードの科学」選手の能力高めたい

「富岳」(理化学研究所提供)

 富岳は先代の「京(けい)」の後継機として理研と富士通が共同開発。理研計算科学研究センター(神戸市)に設置され、昨年3月から本格稼働中。2020年4月からの試験利用で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策で成果を上げるなど、利用が始まっている。昨年11月にはスパコン計算速度ランキング「TOP500」のほか3指標で4連覇を達成し、実力の高さを裏付けている。スポーツへの活用は、富岳の多彩な活用の可能性を物語るものとなった。

 坪倉教授によると、スキージャンプの複雑な飛行過程を丸ごとシミュレーションしたのは世界初とみられる。富岳を使う意義は、計算の速度、精度、そして多くのシミュレーションが同時にできることの、3点にあるという。

オンラインで会見する坪倉誠・神戸大学教授

 従来のスパコンに比べ、計算速度は桁違いだ。ただ坪倉教授は「計算にCPU1個を使ってまだ一晩かかる。最終的には、ジャンプ1回目の後、2回目までにシミュレーションを終えてコーチできるようにしたい。富岳なら、チューニングしていけばできる可能性がある」と期待する。高い計算精度を発揮できる富岳によって、高速で飛ぶ選手の体格の違いも区別できるようになってきた。また、同時に多くのシミュレーションをすれば、選手にさまざまな飛び方を示しコーチできるようになるという。「AI(人工知能)に機械学習させ、『こんな形で飛べばよい』と提案できるようにもなる」とも展望する。

 坪倉教授は「科学が、選手に身近に寄り添うことが重要だ。今回は(小林選手の飛行の)説明しかしていないが、選手ごとにテーラーメードでコーチできるシステムを構築したい」と意気込む。「選手が飛べるのは1日数回。コンピューターではるかに多いシミュレーションをして、選手に最適な飛び方を提案したい。科学は、理想化した状態の普遍的な技術を探ってきたが、ここでチャレンジしているのは、人それぞれ違うテーラーメードのもの。縁の下からサポートしたい」

鳥類へとマインドシフトできるか

オンラインで会見する山本敬三・北翔大学教授

 長年にわたり研究に取り組んできた山本教授は、何度も繰り返し念を押す。「今回分かった小林選手の飛び方は、決してゴールデンスタンダードを示したものではない。選手ごとに、最適化した動作があると思っている」

 この競技では経験の長い選手が勝つことがある一方、浅い選手も突然、世界のトップに立つ。山本教授はその例として小林選手や、ともに北京冬季五輪に出場している高梨沙羅選手を挙げる。「不思議な競技だ。原理に気づいた人は飛べるが、どんなに練習しても気づけなかった人はトップに立てない。どうしたら、人類から鳥類へとマインドシフトできるのか。選手もコーチも、研究者も知りたいが、まだ答えがない」と、道のりの険しさを口にした。

 決勝を2日後に控えた4日、坪倉教授は「小林選手がなぜ強いのか、科学的な裏付けができた。(北京五輪では)自信を持って飛んでくださいと言いたい」と話していた。研究者たちの熱い思いが、小林選手の心にしっかり届き、勝利の女神がほほ笑んだに違いない。

関連記事

ページトップへ