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科博発、江戸の天文学者からのメッセージ 国立科学博物館「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」

2016.01.29

 渋川春海(しぶかわ はるみ 1639-1715)をご存知だろうか。日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる江戸時代の人物である。新しい暦を編纂した功績により、江戸幕府初代の天文方※1に任命された彼は、天の動きを正確に理解するために自ら装置を作り、天体観測を行なった。そして彼の後も、西洋の知識がもたらされるとともにさまざまな天文学者が天体の観測を行ない、新しい暦への挑戦を続けた。一方、望遠鏡の普及につれて、一般の人々も天体観測を楽しむようになった。今年は渋川春海没後300年の年であり、国立科学博物館にて「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」が開催中である。今回は、展示を紹介しつつ、日本の天文学を開拓した先人達の歩みをたどりたい。

※1 天文方/幕府の職名。天文、測量などに関わる業務を行なった。

難しくて重要な暦

 渋川春海の偉業を知ってもらう前に、当時の天文と不可分だった「暦」についてまず紹介しよう。日本の暦は明治時代まで、月が満ちて再び欠けるまでの29?30日間をひと月とする「太陰太陽暦」が用いられてきた。今の太陽暦は簡単で、小学生でもカレンダーを作ることができる。しかし当時の暦は年によって月の数が変わる複雑なもので、政府から権限を与えられた専門家が計算し、民衆に周知されるものであった。

 時間だけでなく、季節のリズムを知ることは農業をする上で、また、潮の満ち引きを知ることは漁業をする上で重要であり、暦は今以上に生活に密着したものだった。為政者は、日食や月食などの天文イベントのタイミングをぴったりと言い当て周知することによって、その地位を権威づけることができた。暦は政治の一部であり、当時の天文学は主に暦を決めるためにあったと言ってよいだろう。

 日本では、平安時代から約800年もの間、中国渡来の「宣明暦(せんみょうれき)」が使われ続けてきた。だが、中国の経度のままで計算されている上、何百年もの間に実際の季節とのずれが生じていたため、より正確な暦が求められた。そこで、星の運行を実測し、初めて日本独自の「貞享暦」(じょうきょうれき)」を作成したのが、渋川春海である。「貞享暦」は、1684年、幕府に採用され、翌年から施行された。

日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ?

 春海は、自ら新しく制作した渾天儀(こんてんぎ)という測定器で、星の位置の観測を行なった。中国から伝わった283個の星座の星々を実際に観測して照合し、新たに308個の星、61個の星座を追加した。また、それを元に星図と天球儀も制作している。

渋川春海が作成した天球儀を投影した展示。
写真1.渋川春海が作成した天球儀を投影した展示。中央にオリオン座、左上部から右下部にかけてある黒い帯は天の川。展示場では、投影した天球儀をパソコンで自由に回して見ることができる。
(展示より。原資料:国立科学博物館所蔵)
星の位置を測る渾天儀(こんてんぎ)。玉衡(ぎょくこう)という棒を観測したい星に向け、北極星(天の北極)からの角度を測る。
写真2.星の位置を測る渾天儀(こんてんぎ)。玉衡(ぎょくこう)という棒を観測したい星に向け、北極星(天の北極)からの角度を測る。この機器は、渋川春海の孫弟子の指導によって仙台藩で作られたもの。
(展示より。複製:千葉市立郷土博物館所蔵、原資料:仙台市天文台所蔵)

 春海は多才な人物で、囲碁、神道、算術も深く学んだ。高い学識によって書いた「瓊矛拾遺(ぬぼこしゅうい)」という書では、「日本書紀」の概念を下敷きにして、地と水が球を成しそれを丸く天が包んでいる世界観を紹介し、物事の成り立ちや神の理に基づいて人はどう振る舞うべきか、を示している。さまざまな分野を深く研究し、世界のあり様や生命の起源を探究する姿は、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと言えるかもしれない。

 春海の暦が採用されると同時に、暦を取り扱う部署が幕府に新設され、江戸市中に天文台が設置された。そこでは天体観測が行なわれ、暦の精査や新たな暦作りが行なわれた。かの8代将軍吉宗も天体望遠鏡を作らせ、自ら観測を行なったという。その後、それぞれの世代の学者らによって、新しい暦は明治時代になるまで、約50年ごとに作られ続けた。

 ところで、「貞享暦」が作られたにもかかわらず、なぜ新たな暦が必要かと疑問に感じる人がいるかもしれない。西洋の新しい理論が導入され、天体の運動をより正確にとらえることができるようになり、彼らの努力によって、より一層ずれの少ない暦が作られていったのだ。

 さて、江戸後期になると、天文学は暦を作るためだけではなく、次第に宇宙への興味を伴い始める。民衆が手軽に望遠鏡を入手できるようになり、入門書も出版されて、天文学は広く親しまれていった。例えば、望遠鏡で月や木星を観察したり、入門書で彗星とはどんなものかを知ることができたようである。ちなみに江戸時代の民衆の識字能力は世界でも高く※2、ロボットの起源ともされるからくり※3なども流行した。当時の江戸の文化的レベルの高さがうかがえる。

※2 江戸時代の民衆の識字能力/明治16年に行なわれた、江戸期の寺子屋の数を遡及した調査によると、全国に15,560の寺子屋が存在したとされる。また外国人研究者が「明治3年時点での読み書きの普及率が、現代(本発行時1965年のこと)の発展途上国よりかなり高い。おそらく当時の一部のヨーロッパ諸国と比べてもひけをとらなかっただろう」とも分析している。(広島大学教育開発国際協力研究センター「国際教育協力論集」より抜粋)

※3 からくり 電力を用いずにねじで動く機械的仕組み。室町時代に日本に入って来た西洋時計を工夫し、江戸時代には茶汲み人形や和時計など独自の進化を遂げた。

江戸市中にあった天文台の位置を載せた現在の地図。
写真3.江戸市中にあった天文台の位置を載せた現在の地図。「現在地」は国立科学博物館を指す。本所、駿河台、江戸城内、神田、牛込、浅草、九段などに設置された。残念ながらその跡が残っている場所はないという。
(展示より。地図は国土地理院電子地形図25000より)
今回新たに発見された「江戸城吹上御庭図」。
写真4.吉宗の時代、お城の中にも天文台が設置されていた。今回新たに発見された「江戸城吹上御庭図」。赤い矢印が天文台の場所を示す。地図の所有者はこれを、古書店で偶然発見したそう。
(展示より。個人所蔵)

情熱と努力と平和と

洞口俊博氏。
写真5.洞口俊博氏。ご自身は恒星が放出するガスの研究が専門。

 本展示企画者である同博物館 理工学研究部理化学グループで天文学の研究主幹を務める洞口俊博(ほらぐち としひろ)氏は展示の見どころについて、「年号や書物の名前などを気に留めるよりも、当時の人達の情熱と努力を感じてほしい」と語る。「ほんの少しの単語しか知らないのに、彼らは蘭学書※4を必死に翻訳したり、自分たちで観測装置を作ったりしました。当時は今よりずっと情報や知識が少なくて、研究を進めるには多くの困難が伴ったことでしょう。自然の仕組みを知りたいという彼らの強い情熱は、現代の私たちにも大きな刺激を与えてくれます」

※4 蘭学書/オランダ語で書かれた学術書。鎖国中も通商を許されたオランダを通して、西洋学術が日本に入って来た。天文学の他に、医学、語学、測量、世界地理などの書があった。

 このように、渋川春海らの努力によって、日本の天文学の観測方法や研究は江戸時代に花開いた。だが、残念ながら先進的だった西洋の天文学が主流となったため、現代の天文学にそのまま引き継がれたとは言えない。しかし、より良い道具や方法を求めて努力し真理を追究する姿は、現代の研究者たちに通ずるところがあるのではないだろうか。

正確な時間を測るためのカウンター付き振り子。
写真6. 正確な時間を測るためのカウンター付き振り子。当時、民衆が使っていた時間は、季節や昼夜によって変化するものだった。暦を決めるために星の動きを記録するには、このような「時計」が用いられた。
(展示より。複製:千葉市立郷土博物館蔵、原資料:伊能忠敬記念館)

 洞口さんが、さらにもうひとつ展示に込めたメッセージがある。「なぜ渋川春海が新たな暦を作ることができたのか。その理由のひとつは、学問が奨励される平和な時代に生まれたからでしょう。もし戦国時代に生まれていたら、どんなに優秀でもこれらの偉業は為されなかったと思います」と語る。平和だからこそ渋川春海が出現し、その後の豊かな天文文化が育まれたのかもしれない。

江戸の天文学者たちは、皆さんにどんなメッセージを発信してくれるだろう。ぜひ展示会場に足を運んで、ご自分で確かめてほしい。

サイエンスライター 田端萌子

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