急速に進歩し、世界中で普及が進む人工知能(AI)分野の研究者に2024年のノーベル物理学賞と化学賞が授与されることになった。10月8日に発表があった物理学賞は「機械学習」や「深層学習」(ディープラーニング)の基礎を築いた米国とカナダの2氏が、9日発表の化学賞はタンパク質の設計と立体構造予測にコンピューターとAIを活用した英国と米国の3氏が栄誉に輝いた。
多種多様な科学研究を対象にする自然科学部門のノーベル賞が同一分野に贈られるのは同賞の120年あまりの長い歴史の中でも珍しく、AI研究での受賞は初めてだ。化学賞に決まったタンパク質構造のAI予測プログラムの最新モデルは2020年に公開されたばかり。多くの科学界関係者を驚かせ、賞の評価対象がかなり時代をさかのぼった従来の研究成果にとどまらず、日々進歩している最先端の科学技術に広がっていることを示した。
連日AI分野の研究が選ばれたことは生成AIが身近な生活に爆発的に広がるなど、実用化が鮮明になった現状と社会への影響の大きさを強く印象付けた。
そうした中で物理学賞が決まったカナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授は急速なAI進歩に伴って偽情報や偽画像が拡散している現状に警鐘を鳴らし、同賞の選考委員会もAIを安全に倫理的に使う責任に言及した。自然科学部門のノーベル賞は人類に最大の貢献をした研究者に与えられるが、科学は負の側面も持つ。AIの「ゴッドファーザー」「生みの親」と呼ばれた同氏の警鐘は重く響く。
AIの基礎築いた2氏に物理学賞
スウェーデン王立科学アカデミーが今年のノーベル物理学賞を授与するのはヒントン氏と米プリンストン大学のジョン・ホップフィールド名誉教授だ。2氏はAIの根幹とも言える「人工ニューラルネットワーク」(神経回路網)の基礎を築いた。人工ニューラルネットワークはコンピューター上で人間の脳神経の働きを模して意思決定をするモデル。AIに膨大なデータを学習させてパターンや規則性を見つける機械学習やディープラーニングにつなげた。
ホップフィールド氏は物理学と生物学の理論を巧みに使った。磁性の振る舞いに関する物理学のモデルを基に脳の神経細胞の働きに関するモデルにも着目した。人の脳神経は神経細胞が多数張り巡らされ、ネットワークを構成している。同氏は神経細胞同士のつながりを模倣、入力したデータのパターンを記憶した上で再現するモデルを提唱し、1982年に機械学習の原型となる手法を発表した。
ヒントン氏は1986年までにこの手法をさらに発展させ、AIがより深く学習して答えを生み出す仕組みを提示。画像などの大量のデータからAIが特徴を見いだして自動的に学習する手法を開発した。2002年には新たな高速学習アルゴリズムを発表し、AIが膨大なデータを効率的に処理することを可能にして、機械学習の一種で発展型と言えるディープラーニングの飛躍的な進化につなげた。
同氏は2012年には「深層畳み込みニューラルネットワーク」によって従来の画像認識技術を超える精度を実現している。この成果により「第3次AIブーム」が始まり、世界中での生成AIの急速な普及につながった。このためAIを活用したサービスは両氏の成果がなければ実現しなかったとされる。現在スマートフォン(スマホ)などの顔認識機能や、翻訳など生活に欠かせない技術となっている。
化学賞は創薬に貢献するAI活用に
スウェーデンの王立科学アカデミーが今年のノーベル化学賞に選んだのは米グーグルのAI研究開発部門、英グーグルディープマインド最高経営責任者(CEO)のデミス・ハサビス氏、同社のジョン・ジャンパー氏、そして米ワシントン大学のデビッド・ベイカー教授の3人だ。ハサビス氏は同社のAI囲碁ソフト「アルファ碁」の開発者で、アルファ碁で2016年に当時の世界トップクラスの韓国のプロ棋士に勝利したことで知られる。
3人の授賞理由は「計算によるタンパク質の設計」「タンパク質の構造予測」。タンパク質は一般的に20種類のアミノ酸で構成されるが、それぞれひも状に連なっていて立体的に折り畳まれて機能を発揮する。タンパク質の3次元構造でその働きが決まるため、構造が分からないと創薬などの研究開発が進まない。長い間アミノ酸の配列からタンパク質の立体構造を把握することは難しかった。また、構造がまだよく分からない重要なタンパク質も多く残っているとされる。
ベイカー氏はタンパク質構造を予測するコンピューターソフトを開発し、2003年に自然界には存在しない新しいタンパク質を設計したと発表。それまでは新しい機能を持つタンパク質をつくるためには既存のタンパク質に手を加えるしかなかったが、つくりたいタンパク質の形をつくることが可能になった。
ハサビス氏やジャンパー氏はディープマインドの成果としてタンパク質構造予測プログラム「アルファフォールド(AF)」と「アルファフォールド2(AF2)」を次々に開発し、2018~20年に発表や公開をした。このAI技術の登場により、ほぼ全てのタンパク質の構造を予測することが可能になり、タンパク質の機能の理解や薬、ワクチンの開発に大きな貢献をしたことが評価された。
医療の分野でも実用化進む
現在、タンパク質は医薬品の標的になっており、その構造を素早く解明できれば新薬や新たなワクチン開発の速度を大幅に向上できる。世界的な脅威となった新型コロナウイルスの研究でもタンパク質の構造予測は威力を発揮した。
AIの医学研究、医療への活用は創薬分野に限らない。画像診断支援や病態分析から人々の健康管理に至るまで既に広く実用化が進んでいる。国立がん研究センターと日本電気(NEC)が開発したAIを活用して大腸がんの前がん病変ポリープを見逃さないシステムは既に医療機器として承認されている。このほか、同センターのAIを活用して個人別最適医療を行う試みなど、臨床現場での活用例は数多い。
AIを組み込んだロボット活用の試みも進んでいる。医療現場でのAIの導入は医療スタッフの負担軽減や人手不足にも役立つとされている。また、AIによるオンライン診断などは過疎化が進む地方での活用が期待されている。
AIの進歩というと多くの人は生成AIや車の自動運転などを連想する人が多いが、こうした医療の分野での実用化は人間社会の福祉向上に貢献している。
社会の中でのAIの大きさを反映
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者のアルフレッド・ノーベル氏が自分の発明が土木目的だけでなく武器として大量に利用されたことを悔やんで「人類に最大の貢献」をした人々に与える賞を設立するとの遺言を残したことから創設された。
第1回の授賞式はノーベル財団により、1901年に遺言にあった5分野の物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の各賞が贈られた。第1回の物理学賞の受賞者はX(エックス)線を発見したドイツの物理学者のヴィルヘルム・レントゲン氏だった。以来選考過程は秘密裏に進められるが、選考基準の最大のポイントは遺言にある「人類に最大の貢献」だ。歴代の自然科学分野の各賞の授賞理由を見ても「なるほど」と納得させる内容になっている。
ただ、近年は世界的に関心が高い分野への授賞が目に付く。2023年の生理学・医学賞はメッセンジャーRNA(mRNA)を使った新型コロナウイルスワクチンの開発に道を開いたドイツのバイオ企業ビオンテック顧問で米ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ客員教授と、同大学のドリュー・ワイスマン教授の2氏に贈られた。スウェーデンのカロリンスカ研究所は「(ワクチンは)世界中で130億回も投与され、何百万人もの命を救った。社会が通常に戻ることを可能にした」と社会的意義を高く評価している。
また2021年の物理学賞は地球の温暖化や気候変動の問題がほとんど注目されなかった1960年代から半世紀以上温暖化予測につながる研究に取り組んできた、地球科学者で米プリンストン大学上席研究員だった真鍋淑郎氏に授与されている。新型コロナウイルス感染症も気候変動も人類にとって脅威で、その脅威に立ち向かう研究成果は間違いなく人類に貢献するものだった。
AIの光が強いだけに影も
スウェーデンの王立科学アカデミーは今年の物理学賞の授賞理由の中で「今日の強力な機械学習の基礎を築いた」と表現、また化学賞の授賞理由の説明の中で「タンパク質の複雑な構造を予測するという50年来の問題を解決するAIモデルを開発した。非常に大きな可能性を秘めている」「独自のタンパク質を設計できるようになったのは人類にとって最大の利益」と表現している。
「強力な」という表現から現在の社会の中でAIが大きな存在感を示していることが、また「50年来」「最大の利益」という表現からは薬の開発という人類の健康・福祉の向上の鍵を握る分野での貢献を高く評価していることが、それぞれうかがえる。
生成AIの急速な普及やAIを駆使した自動運転に代表されるようにAIは世界中の社会や経済に大きな影響を与えている。現代社会を支える重要な基盤である科学技術は今やAI抜きに成り立たなくなりつつある。そして科学や科学技術の研究分野でAIは欠かせないツールになりつつある。
その一方で、生成AIの意図的な悪用により、偽情報や誤情報、そして偽動画が巧妙化し、拡散して人々の認識や行動に直接影響するリスクが世界的に高まっている。比較的最近の国内例では東京都知事選挙や能登半島地震後に、国外例では米大統領選挙やパレスチナ自治区ガザなどの戦火の下でも偽情報や偽画像が拡散した。人類に恩恵をもたらす光が強いだけに同時に影も生じている。
「制御不能」への危惧メッセージも
ノーベル賞は、平和賞ほどではないにしても、自然科学分野の各賞も世界に向けた何らかのメッセージが込められていると感じさせることが少なくない。今年の物理学賞、化学賞の授賞理由や物理学賞の選考委員会の説明からは、科学・科学技術の発展を加速するAIの進歩に対する積極的評価だけでなく、あまりにも速い進展に対する戸惑いや危惧のメッセージを読み取ることもできる。
一時米グーグルの副社長も務め「AIのゴッドファーザー」と呼ばれるヒントン氏はAIの性能向上によって危険性が高まるとの懸念を抱いたと伝えられる。2023年3月に強力なAIシステムの開発を一時停止するよう求めた公開書簡に著名なAI研究者とともに署名し、その約2カ月後にグーグルを退社している。その後もAIの危険性について積極的に発言してきたが、スウェーデン王立科学アカデミーの発表直後のインタビューに次のように述べている。
「気候変動に対して何をすべきか分かっている。しかしここで(AIにより)何が起きるのか、起きたことに何をすべきか、私たちは何も分かっていない。AIが制御不能になり、支配的になるという実存的脅威を前に私たちは歴史的分岐点にある。今後数年間でその脅威に対する方法を考える必要がある」。この発言の直後に共同受賞者の米国のホップフィールド氏も「彼の心配に共感している。心配なのはAIの潜在能力が分からないことだ」と語っている。
深刻な軍事利用の拡大
真偽が不明な多くの情報が世界で政治利用されるだけでなく、AIの威力そのものが最新鋭兵器など、軍事に利用されている懸念が増大している。
先進7カ国(G7)は2023年12月に「安全、安心、信頼できるAI」を世界に普及させることを目指した国際指針と行動規範で合意した。今年に入ると欧州連合(EU)が2月に巨大IT企業に違法コンテンツの排除を義務付ける「デジタルサービス法」をいち早く施行させた。
国連総会は2023年12月22日にAIを使って敵を攻撃する自律型致死兵器システム(LAWS)への「対応が急務」とする決議案を日本や米国などの賛成で採択している。LAWSはAIが人間の関与なしに攻撃目標などを判断して攻撃する。このシステムが実用化すれば、武力行使の判断を瞬時にでき一気に紛争化する恐れがあるという。火薬と核兵器に次ぐ「第3の軍事革命」になると指摘されている。ただ、決議案の採択では150カ国以上が賛成したがロシアなど4カ国が反対し、中国など10カ国以上が棄権するなど国際社会は一つになれていない。
LAWSの問題に対して国連のグテーレス事務総長はこれまで「LAWSは政治的に容認できず、道徳的に忌まわしいものだ」などと発言し、国際法の下での禁止を求めている。AIの負の部分に対する対策は容易ではないが、現在の世界の極めて深刻で重要な課題だ。
賢いAI利用で試される人間の英知
科学の常識を変えつつあるAI。実用化例が急増し、その威力に物理学と化学の2賞の選考委員会が注目したのは間違いない。ヒントン氏らが指摘するAIが手に負えなくなるという脅威に対峙できるのはAIではなくやはり人間だろう。AIをいかに制御しながら賢く使い、共存できるか人間の英知が試される。
今のAIはまだ知性や理性はない。いずれAIはこれらを持ち得ると指摘する研究者もいる。その予測が当たるかどうかはまだ誰にも分からない。ただ人間の判断を支援できる自主性を持った「自律汎用型AI」は実用化が近いとされている。今、少なくとも言えるのは「人間がAIに使われてはならない。AIを利用する主体はあくまで人間」ということだ。各国は互いに連携して国際社会としてヒントン氏らの警鐘に応える必要がある。
物理学賞も化学賞も選考過程は秘密のベールに包まれている。今回の選考で2賞の選考委員会が互いにどの程度情報を交換したのか、しなかったのかは明らかにされていない。ただ物理学賞の選考委員会は授賞者の発表に際して「機械学習は莫大な利益ももたらしているが急速な発展は将来に対する懸念も引き起こしている。人類はこの新技術を安全で倫理的に使う責任がある」と言及している。
「AIのとてつもなく大きな可能性をどこまで引き出せるか。同時にAIの負の側面にどんな解決策を示せるか」。AIのダブル受賞は、現在の人間社会がAIを巡ってこうした大きく重い課題を抱えていることも想起させた。