前夜(22日)、都心のバーで高校の先輩にごちそうになっていたら、テレビで大島渚監督の告別式の模様を放映していた。既に新聞記事でも読んでいたが、田原総一郎、澤地久恵、坂本龍一氏らが、故人に対する大いなる賛辞、謝辞を表明していた。弔辞や、紙面に載るか放送されることが分かっているコメントで故人をけなす人はまずいない。それにしても、日ごろ人を褒めるより批判する方が多いのではとも思われる人たちが、えらく素直に見える。田原氏の司会で当時、話題になった「朝まで生テレビ」での映像だろうか。繰り返し大写しされた大島監督の怒りの表情が、対照的だった。
大島監督の映画で観たことがあるのは、「青春残酷物語」「日本の夜と霧」(いずれも1960年)、「戦場のメリークリスマス」(1983年)くらいだろうか。だから、作品について何か言えることなどない。だが、監督自身についてはいくつか興味を持ったことがある。
通信社勤務時代から映画記者・評論家として活躍している女性の先輩がいる。編集局以外の部署から文化部に移動してきたので、映画取材を始めたのはほかの同僚記者より幾分遅かったかもしれない。「大島監督を取材している各新聞社の記者たちが、皆、監督に心酔しているような態度であることに驚いた」。そんな趣旨のことを話してくれたのを思い出す。ほとんど厳しい質問もせず、ひたすら相槌を打つだけ。こわもての取材相手だったりした時に編集者も経験がないこともない。雰囲気を想像して「なるほど」と思ったものだ。
「青春残酷物語」を公開されてからだいぶ後で観た記憶があるのは、この作品の撮影監督が、川又昂さんだったからに違いない。高校の大先輩だ(川又さんが卒業されたのは旧制中学時代)。カメラを移動しながら被写体を追うとき、昔は監督とカメラを載せた台車を動かすのは人の手によっていたらしい。レールの上を移動するとはいえ、同じスピードで動かさなければならないから、台車を押す役目は、相当の力仕事だ。体の大きな川又さんは小津安二郎監督に気に入られ、まだ撮影アシスタントのころ、いつも押し役に指名されていたという。「(茨城)なまりの兄さん」の呼ばれ、原節子にも可愛がられていた。こんな話は、ご本人から直接伺ったのか、本や新聞記事で読んだのか記憶が定かではないが…。
ただ、「青春残酷物語」を観たのが、高校同窓会の会報に登場してもらうため川又さんに何度かインタビューした後だ、と思うのは理由がある。主人公の桑野みゆきと川津祐介がモーターボートを乗り回す。そんな場面が印象に残っているからだ。東京湾の木場辺りではないかと思うが、画面いっぱいにモーターボートの軌跡が広い円となって残る…。この撮影場所を探すのに、川又さんらしい入念な下調べをしたはず、と思いをめぐらしたものだ。
さて、川又さんに聞いた大島監督の話である。ある晩、大島渚、小山明子夫妻が、真剣な面持ちで川又さんの自宅を訪ねてきたことがあったそうだ。「青春残酷物語」で監督、撮影監督のコンビを組んだ何年か後である。要件とは、息子さんをいい幼稚園だか小学校に入れるための相談だったというのだ。大島夫妻も有名私立学校にはつてがなかったらしく、映画界の先輩である川又さんなら力になってくれるのでは、と考えたらしい。
わざわざこんなエピソードを編集者に聞かせてくれたのは、川又さんも大島監督の意外な一面を見たという思いだったのだろう。この話は、同窓会報の記事には書かなかったが、編集者も「フーム」と思ったことを思い出す。
先輩に対して暴言に近いような言葉を平気で吐く男が、こと夫人や子供のことになると全く甘い態度をとる。よく言えば「ほほえましい」、悪く言えば「どこか身勝手な」人間は、何人か知っている。大島監督の人の接し方は、家庭の内外で違っていたのだろうか。
都心のバーのテレビに大写しになった怒り顔を眺めながら思った。
「家庭に英雄なし」という言葉が確かあった、と。