大山康晴より升田幸三、中原誠より米長邦雄の方が好き。将棋ファンに限らず、そういう人は多いのではないだろうか。「子供に銀行の職場と工場を見せて、将来、銀行員と工員のどちらの仕事をしたいか、と聞いたら、おそらく大半は工員と答えるはず」。ソニーの創業者、井深大氏がこのような趣旨のことを昔何かに書いていた。升田、米長の方が好きという人が多いと思われるのと、どこか通じるところがあるような気がする。
編集者も子供のころから事務職(管理業務)より工員(現業)の方に手を挙げる口だったと思う。通信社の入社試験で直前に提出させられた用紙に「尊敬する人をかけ」という質問項目があった。歴史上の偉人など書いて、面接でしどろもどろになるのはたまらん。そう考えて、「升田幸三」と書いたくらいだ。将棋が強いわけでもなく、将棋の棋士には関心があり、新聞の観戦記をはじめ棋士に関する記事は小さいころからよく読んでいたというだけの理由で。
日本将棋連盟理事長で棋士としても人気があった米長邦雄氏の死は、やはり各紙とも大きな紙面を割いていた。「奇行を含め、将棋界では収まりきれない才気の人だった」(読売新聞)、「常にユーモアを忘れない語り口」(産経新聞)、「ユーモアやお色気を交えた軽妙洒脱(洒脱)な話しぶりや文章」(東京新聞)など、輝かしい棋歴以外の氏の魅力を伝える記述も多い。ただし、以下の話は、どの新聞にも出ていない。
1980年代半ば、中原誠氏と十段(現・竜王)のタイトルをかけて戦った時の話だ。大事な戦いを前に、酒色のうち、せめて「色」だけを絶とうと決心する。しかしある夜、酔いつぶれて美人のマンションに二人きりになってしまう。「実はぼくはホモなんだけど」。すぐ見破られたといううそをついて、しばし抱き合うだけで許してもらった…。などと著書「人生一手の違い」に書いてあるのを読んで、笑ったものだ。この本には、さらに仕掛けがある。腹帯のような本の外装だったかと思うが、女優の太地喜和子さんの推薦文が載っていた。「しばし抱き合うだけだった」という美人がこの人だ、と普通の人ならすぐ気づくように…。
氏は49歳で、ようやく中原誠氏を破り名人になる。他の棋戦では中原氏からタイトルを奪ったことがあるのに、最も格が高いとされる名人戦ではそれまで5回挑戦して、ことごとく敗れていた。人一倍、才気煥発であることが、自然流と呼ばれる中原氏のような相手にはマイナスに働くのではないか。そんな気持ちから、名人戦で敗けが続いていた当時、雑誌「近代将棋」の発行者で、NHK杯将棋トーナメントのテレビ番組聞き手としても知られていた永井英明氏に聞いたことがある。今年9月亡くなった氏は編集者の遠縁にあたり、叔父の法事の時だったと思う。
「米長氏は名人になれませんか」
「米長さんは日本将棋連盟の理事長になろうと思っていますよ」
意外な答えだった。「さわやか流」と呼ばれる棋風、言動や、将棋以外の世界の人たちとの幅広い交友ぶりは、どちらかといえば将棋界の先輩では升田幸三氏を思わせる。将棋の強さだけでなく、日本将棋連盟の理事長としても君臨していた大山康晴氏に似ているようには到底見えない。米長氏と、日本将棋連盟のトップになりたいという権力志向とは、どうにも似つかわしくないように思えたものだ。
米長氏の死を伝える各紙の記事をよく読んでみると、なるほどと思わせる記述があることに気づく。「だが、棋士としての魅力的な個性は、公職という鎧(鎧)を着ると、時に問題の種になった」(東京新聞)、「『強烈な自己顕示欲をユーモアというオブラートで包んでいる』というのが私の米長評」(内藤國雄9段の談話、朝日新聞)。前者は、名人戦の主催社を毎日新聞から朝日新聞に移管しようとした際の強引な手法を指している(両社の共催で決着)。
まあ、人間だれしも、とりわけ器の大きい人ほど一つや二つの形容詞で表現できるような単純なものではない、ということだろうか。
もう一つ、米長氏について忘れられないことがある。20年以上も前のことだが、氏が雑誌に、なぜ競馬から足を洗ったか、という話を書いていた。「100円ずつ出してじゃんけんをして、自分が勝ったら相手から50円しかもらえないのに、相手が勝ったら100円全部とられる。競馬とは、こんなルールで中央競馬会を相手にかけをするようなものだ」
競馬とすっぱり縁を切ることができた理由の一つが、目からうろこのようなこの記述だった、と思っている。