「麻雀放浪記」など麻雀(マージャン)小説でも有名な阿佐田哲也(色川武大)氏が、ナルコレプシー病だったということは知っていた。伊集院静氏の奇妙な小説「いねむり先生」に、モデルである阿佐田氏の症状を描写したくだりがある。浅草の喫茶店でトイレから主人公が戻ってみると、直前までタウン誌を読んでいた先生が「椅子の背に体重を預け、でっぷりとしたお腹を突き出し、両手をだらりと下げていた。足元にタウン誌が落ちていた。額から迸る汗…」。
読み通すのに結構、苦労したこの小説をもう一度開いてみる気になったのは、12日、睡眠の研究で知られる柳沢正史・筑波大学教授にインタビューしてきたからだ。わざわざ言うまでもなく、眠りはヒトに限らず多くの動物にとって生存に欠かせない行動である。編集者など、昔から夜、本を読み出すと(読まなくとも)、すぐ眠くなるたちだから、「あのころは毎日、睡眠を1、2時間しかとれなかった」など、どこか自慢げに言う人の言葉は真に受けたことはない。
睡眠時間をコントロールする体内時計という1日周期のリズムが、ヒトをはじめ多くの動物の体に備わっている。これは、多くの人が先刻承知だろうが、柳沢教授の大きな研究成果は、オレキシンという脳内でつくられる物質を見つけ、これが眠りと目覚めの状態を切り替える決定的な役割を果たしていることを突き止めたことだ。教授らの研究成果を基に海外の製薬メーカーがこれまでと全く性格の異なる睡眠薬を開発、臨床試験も終えているそうだ。近い将来、製品化が期待されるということらしい。
ただし、睡眠について分かっていることはごく一部。眠りの根本的な仕組みは依然として「ブラックボックス」のままだそうだ。はっきりしていることは、ヒト、その他の動物がそろいもそろって眠りを必要としていることで、それは、規則正しく眠るという行動が間違いなく進化に必要だった、ということだろう。
柳沢教授の話は実に刺激的であるのと同時に、大いに納得するものでもあった。睡眠を削るなどということが体にいいわけがない、と信じる人間としては。
つくばから戻った足で、神田神保町の岩波ホールに出かける。アンジェイ・ワイダ監督(脚本も)の映画「菖蒲」が上映最終日だったからだ。ワイダ監督のファンは、日本にも数多いと思われる。第二次世界大戦中に、ソ連軍が将校を含む大量のポーランド人捕虜を虐殺した。そんなおぞましい史実に真正面から挑んだ作品「カティンの森」(2007年)に、編集者も感服した口だ。人間というのは、ここまでやるものか。ポーランド軍将校たちの後頭部に無表情で次々に銃弾を撃ち込むソ連軍人の姿が、まるでと畜場で家畜を殺すかのように見えて、考え込んだものだ。
ワイダ監督は、父親がこの「カティンの森事件」で虐殺されている。長い間、ポーランドでも真相解明が難しかったこの事件は、なんとしても撮りたかった作品だったのだろう。
今回の「菖蒲」は、「カティンの森」とはだいぶ印象が異なる。原作者・イバシュキェビチと、主演女優・クリスティナ・ヤンダに対するワイダ監督の強い思いがこもっているということだ。ヤンダは、ワイダ監督の代表作である「大理石の男」(1977年)と「鉄の男」(1981年)に主演しており、今年で60歳になる。映画の中では、まだ20歳の青年に好意を持つが、出会いはともかく、親しくなる経緯が少々説明不足の感がある。青年が向こう岸に生えている菖蒲を主人公のために引き抜いてくる途中であっさりおぼれ死んでしまうのも、やや唐突ではないだろうか。
さらに作品を難解にしているのは、映画の主人公を演じているヤンダが、時々、自分自身に変わってしまうことだ。おぼれかかっている青年を助けようと川に飛び込んだ主人公が、水着のまま向こう岸に上がって、逃避してしまう。「アレッ」と思わせる場面が、実は予定された筋書きに沿ったものではなく、撮影中のハプニングが入り込んだものなのだ。撮影スタッフがあわてて機材の撤収にかかるのを見て、ようやく気付いたが、こうした作品のつくりにとまどう観客も多いのではないだろうか。帰宅後、プログラムを読んで、イバシュキェビチの原作を生かすだけでなく、女優ヤンダ自身も描きたかったからこうした複雑なつくりになったらしい、と分かったような気にはなったが…。
ワイダ監督も、既に86歳。念願の「カティンの森」を撮り終って、生と死の境界にある今回のような話により強い関心を持つようになっているということだろうか。
岩波ホールのプログラムはほかの映画館とまるで違う。著名な人たちの記事も大変ためになるが、何よりもシナリオが載っているのがよい。映画を見ている最中もすぐ別のことを考えてしまう。そんな悪癖がどうしても直らない編集者のような人間には、実にありがたい。「なんだ、あの場面はこういうことだったのか」と後で納得したことが何度あったことか。
この日インタビューした柳沢教授のターゲットには、オレキシンが欠乏することによって生じるナルコレプシーのような突然眠ってしまうような病気の治療薬開発も入っている。阿佐田哲也氏は間に合わなかったが、編集者のようなナルコレプシー予備軍には、何とか生きている間に薬ができてほしいものだ。