レビュー

編集だよりー 2012年12月11日編集だより

2012.12.11

小岩井忠道

 創刊90周年記念号ということだろうか。いつもは郵便受けに入っている文藝春秋最新号を宅配業者が戸口まで届けてくれた。

 著名人たちの随筆を集めた巻頭の常設ページに、高名な故人たちがかつてこの欄に寄せた名文が再録されている。松下幸之助氏(当時、松下電器)が昭和41(1966)年6月号に書いていたという随筆に感服する。携帯電話がなかった時代の、はたから見れば愉快な話だ。自分が亡くなったというデマが流されているのも知らず予定の場所に着いたら、記者やカメラマンたちが大勢待っていて…といった話が洒脱な文章でつづられている。

 「会社の株価もちょっと下がったらしいが…」という記述があるが、デマにしても大会長が亡くなったという情報だ。「ちょっと」というのは松下氏のユーモアで、株価への影響は相当だったのではないだろうか。

 「経済界に自主性がないと、政府の高官や一部の人の言動で、株価が大きく動き、ひどい時には景気の動向まで左右されてしまう場合がある」。チクリと刺した後で「経済界はやはり、みずから自主性を保つだけの実力というものを身につけなければならないし、政府もまたそうした要望をし、配慮をしなければならない」ともっともと思われる苦言を呈している。

 次に掲載されている宇野千代さんの話も痛快だ。昔、編集者が通信社の若造科学記者だったころを思い出す。職場で夕方、文化部長も経験したことのある科学部長としょっちゅう将棋を指していた。当時から、あまり仕事熱心な記者ではなかったということだ。ある日の対局中になぜか宇野千代さんの話になる。「今でも髪を目いっぱい引っ張って後ろで束ねている。顔のしわを隠すためにね」。宇野千代さんの随筆は、上司にそんな話を聞いた2、3年後、昭和52(1977)年11月号に載った再録だ。

 歴代の夫、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫といった高名な文士、画家の話も出てくる。宇野さんが1982年に毎日新聞に連載していた「生きていく私」を愛読していたので、こちらも面白い。しかし、それらは刺身のつまといった感じで、随筆の主題は麻雀(マージャン)だ。昔の警視庁は暇だったのか、あるいは文化人に対する何らかの意図があったのだろうか。とばくを禁じた刑法185条だか186条だかを適用して、麻雀好きの大勢の文士たちを検挙したことがあったそうだ。この中には文藝春秋の創始者である菊池寛もいたというから驚く。その時、宇野さんの伴侶だった東郷青児も警察に引っ張られ2、3日留置されたそうだが、宇野さんは夫の機転で難を逃れる。

 しかし、麻雀熱は一向に冷えなかったというからすごい。この随筆を書いた時既に80歳。「麻雀があれば、人生そのものが、まだあるような気がするのである」と書いている。

 同じころ、実は編集者も仕事が終わるのを待ちかねるように職場の先輩たちとしばしば麻雀荘に直行していたものだ。年齢は一番若かったが、中学生から麻雀牌(パイ)を握っていた人間である。麻雀歴はむしろこちらが上だ。「リーチ 一発 ツモ」という上がりをよくやり、唯一の手ごわい先輩に疑わしそうな目でよくにらまれたが、意に介さなかった。そのころは、自動的に牌を積んでくれる電動麻雀卓は麻雀荘にもない。勝負が終わるたびにガラガラと手でかき混ぜて、牌を上下二段に積み上げていたが、漫然とこの作業をやっていたら勝負には関係ない全く無駄な時間である。この時に自分の積んだ山のどこにどういう牌を置いたか、毎回必ず4枚、一発逆転を狙う時などは5、6枚覚える習慣がついていた。ツモが自分の山にかかった時、前述のようなリーチをかけた途端に上がる、といったこともしばしば可能だったというわけだ。

 8日、新橋の麻雀荘で通信社時代の仲間でつくる麻雀同好会の今年最後の大会に参加した。半荘4回やって、最下位が3回、最後にやっと2位という惨憺(さんたん)たる結果である。実は、この大会のルールは、学生時代にやっていたルールに相当、近い。運の要素が恐ろしく多い今はやりの麻雀に比べると、編集者には好都合のルールのはずなのだが、このざまだ。もはや積んだ牌を覚えておくという手が使えなくなったとはいえ、どうも、本当に下手になってしまったらしい。

 昔のルールで麻雀に興じているうちに生涯を閉じたと思われる宇野千代さんに、少々のうらやましさを感じながら次の言葉を読んだ。

 「あの時、広津さん(編集者注、作家の広津和郎)が麻雀の手ほどきをしてくれなかったら、私はもっと仕事をしていただろうか。しかし、私は、もしあの時、麻雀を教わらなかったら、などとは決して思わない」

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