8月31日、9月1日と通信社勤務時代のテニス好き先輩後輩たちと、軽井沢で汗をかいた。もう何年も続く楽しみで、ほとんどのメンバーの手の内はお互いよく分かっている。この数年、年に数えるほどしかラケットを握れない。にもかかわらず昨年のこの会では練習十分の時より、むしろ成績がはるかによかった、ということは昨年の編集だよりに書いた。
今年も練習不足は全く変わらなかったのだが、記録を付けない初日の総当たりゲームでは、何と負け知らずである。ダブルスだから自分1人の手柄であるはずはないのだが、そこは気心の知れた仲間だ。「昨年は、とにかくパートナーに迷惑をかけてはならじと、相手のコートにきちんと返すことだけ心がけたら、思いがけない好結果だった。今年の好成績の理由を考えてみたのだが、どうもほかの皆さんがへたになったからとしか思えない」。1日目の夕食時のあいさつで、つい口が滑ってしまった。
その報いだろう。勝ちチームには1人1缶のテニスボール。ささやかな商品が懸かる翌日の2チームに分かれた対抗戦では、2勝3敗と全くさえない成績に終わってしまった。3敗した相方はいずれも実力が上の仲間だったから、責任は編集者にあるのは間違いない。雨で再三中断という前日と打って変わった条件だからボールの重さがまるで違うのに、全く対応できなかったのが最大のミス。ちょっと深く返されたボールの返球がことごとく相手のボレーにもってこいのコースに行ってしまった。
スポーツというのも、無理は自滅の原因という姿勢が度を超して安易なプレーに堕すると、その報いはてきめん。これまで何度経験したか分からない反省をまたしても繰り返す羽目に陥る。
帰京後、読んだ東京新聞8月31日夕刊に鷲田清一・大谷大学教授(元大阪大学総長)の興味深い寄稿記事が載っていた。
「組織の論理にしたがって判断し、行動することを、カントは、たとえ公務員としてのそれであっても、やはり知性の『私的使用』でしかないとした。知性の『私的使用』とは、それをじぶん個人のために使うことではなく、特定の社会や集団の中でみずからにあてがわれた立場にひたすら忠実にふるまうことだと考えたのである」
「知性の私的使用」という言葉は、不勉強の身には初耳だ。鷲田氏の文章は、大津市の中学校で起こったいじめ事件をまず取り上げている。今の日本社会の反応では、解決につながらないことを指摘する中で、この言葉を引用している。氏の文章の中では触れられていなかったが、編集者はすぐに福島第一原発事故によって明るみに出されつつある官僚、電力会社幹部の行動を思った。
民間、国会、政府の事故調査委員会の報告書が共通して指摘していることも、原子力安全委員、原子力委員を含む責任ある公的機関や電力会社の幹部たちの「知性の『私的使用』」だったのではないか、と。