レビュー

編集だよりー 2012年6月14日編集だより

2012.06.14

小岩井忠道

 小説「国語入試問題必勝法」(清水義範著)に、また笑った。20数年ぶりにこの快作を読み返す気になったのは、日経新聞8日夕刊1面に載っていた作家、久間十義氏の「国語入試問題」というコラムが面白かったからだ。

 久間氏が書いていたのは、某予備校の問題集に載った国語の問題に全く手が出なかった、という話である。これだけならどうということはない。しかしその問題文というのが、久間氏自身の文章から採られたというから愉快だ。こうした経験はこれが初めてではないというのも面白い。

 数学は苦にしないのに国語の問題となると、からきし駄目。「国語入試問題必勝法」では、そんな主人公の受験生に家庭教師が最初に教える。

 「まず第一に設問に目を通す。それから、その問題に解答するためにちょっとだけ、問題文も見るわけだ。もっと修行すれば問題文を読まずに正解を出すのも不可能じゃない」

 編集者も初めてこの小説を読んだ時、まずこのくだりに感心し、そして残念に思ったものだ。大学受験の時にこの小説が世に出ていたらなあ、と。主人公同様、高校3年の時、国語の問題集の1、2問に当たっただけで「手も足も出ない」とあきらめてしまった口だ。答えを見ても、どうしてそれが正解なのか分らないのだから、どうしようもない。なにせまともに受験勉強に取り組んだのは、運動部の活動が終わった3年の8月から。受験まで半年間しかないのにこんな科目に時間を費やす暇はない、と国語の受験勉強は放棄してしまった。

 「問題文を読まずに正解を出す」などという思ってもみなかったような“ずるい”方法とは何か。「長短除外の法則」と「正論除外の法則」だという。選択肢の中から正しい答えを選ぶには、字数が最も長いのと、逆に最も短いのは正解でないことが多いから、まず除外する。残った選択肢のうち、「いかにも立派な正論めいたことの書いてある方」も正解ではないからこれもまた捨てる、というわけだ。

 何年か前、東京大学を卒業された方の告別式で友人の弔辞を聞き「東京大学にはこんなサークルがあるのか」と驚いたことがある。受験生相手に入学試験に出そうな問題をつくり、摸擬テストなどを行うというサークルだ(今でもあるかどうかは知らない)。何が面白くて入ったのか。首尾よく入学したら受験勉強のことなど忘れてしまいたいというのが普通だろうに、と首をひねったことを思い出す。

 いいアルバイトにもなるという理由は考え付く。しかし、ひょっとして正攻法で問題に取り組む受験生ほどひっかかるように作られている国語の入試問題に義憤を感じたため、という動機はなかっただろうか。その正体を多くの受験生たちに早いとこ知らせたい、という…。

 「高校生までの国語、英語の教育は、論理的思考能力を著しく低めている」。現在、インタビュー欄に登場願っている西村和雄・京都大学経済研究所特任教授(「物理を学ぶ若者増やせ」第1回(2012年6月4日)「つぶしが利く人間とは」、第2回(2012年6月11日)「社会が求める人材とは」の言葉の中にも、ぎょっとするようなものがある。

 本来、国語や英語は数学と同じように論理的思考力をつくるものだ。それなのに、主語、述語が分かりにくい文や、詩のようなものを最初に教えたら、論理的な思考力など身につかないではないか。国語や英語がきちんとした文章構造を持つことを、まずきちんと教えなければならないのに、というわけだ。大学の国語入試問題ばかりか、そもそも小、中、高校の国語の教え方にも問題ありということらしい。

 「国語入試問題必勝法」には、表題作とともに「猿蟹合戦とは何か」という短編も収められている。その中で西村氏と似たようなことを指摘しているくだりがあるのが面白い。

 「わたしはまへから子供に詩を書かせるなといふことを言ひ続けてゐるのだけれど…。子供に詩を書かせるだけでなく、同じ年頃の子供の書いた愚にもつかぬ作文を詩と称して、見本にするという愚行をまだ続けてゐる」

 ところで大学入試では、清水義範氏に解答法を見抜かれたような国語の出題がいまだにあるのだろうか。考えてみると「正論除外の法則」は大学入試問題以外でも通用するように見える。「いかにも立派な正論めいたことの書いてある」というのは、編集者に言わせれば「だれかが、どこかで既に書いているような見方を連ねただけの」ということになる。

 そんな記事は最後まで読まずに“不正解”と除外してしまう人は、編集者以外にも結構いるのではないだろうか。

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