カラオケが急速に普及したのも、日本のエレクトニクス技術のおかげだろう。社会人になってしばらくの間、プロでもない人間が歌うにはしかるべき店に行って、ピアノやギターの伴奏で歌うほかなかった。歌いたがる客など限られていたから、マイクの奪い合いといった光景は、まずなかったように思う。
しかし、カラオケ普及にはもう一つ大きな理由があるのではないだろうか。素人同士なら他人の歌を聴いているより、自分で歌った方が楽しい。そう多くの人が気付いたから、という。人が歌っている間、分厚い本をめくってせっせと自分が歌う歌を探している。そんな光景が当たり前になっていることを考えると、この指摘は的を外していないように思うが、どうだろう。
スポーツも本来、観るより、自分でやった方が楽しいはずだ。しかし、ゴルフなどわずかのスポーツを除けば、スポーツを日常的に楽しめる人はそういない。少年時代、部活動でスポーツに打ち込んだことがあるという人は、今も昔と変わらず多分、少数派だ。この少数派に入る編集者などにとって、テレビのスポーツ中継やスポーツ記事に不満や違和感を持つ人の気持ちは分かる。
これまで感心したのは、作家、村上龍氏が野球中継を評して昔、どこかの月刊誌に書いていた言葉である。「静止画を見ているようだ」。大体が投手と打者、捕手の映った画面ばかりで、氏の好きなサッカーの試合に比べたら動きに乏しくて退屈極まりない、という意味である。
5日の読売新聞夕刊、「たしなみ」ページに載っていた作家、逢坂剛氏の随筆「野球のマナー」を読んで、この人も村上龍氏と似た見方をしている、と知った。
「十年一日のごとく、センター方面から投手と打者を写し、その合間に選手のアップを撮るだけ」。テレビ中継のマナーに厳しい注文を付けている。さらに感心したのは、次のような記述だ。
「一つの打球に対して、守る側の選手がどう動き、どう連係プレーを展開するか。打者はそれを見ながら、どのように果敢に走塁するか。野球観戦は、それらのプレーを総合的、連続的に目でとらえ、全体として状況を把握するところに、おもしろさがある。こま切れの画像では、それができない」
実はこの日、通信社時代の先輩たちに混じり、約10カ月ぶりにテニスのラケットを握った。首を回しても肩を動かしても、ゴリッ、ゴリッと骨がこすれ合う嫌な音が気になる昨今だ。運動不足は、相当深刻としか言いようがない。
「10カ月も使わないと、ガットも弾力性が低下するか」。いろいろ言い訳をしながら、まずいプレーに終始する。ダブルスの相棒と自分の間に返ってきたボールに全く手が出ず、見送ってしまう。「お見合い」と称する恥ずかしい場面も何回かあった。ラケットが出ないのではなく、足が出ないから、ということはよく分かっているのだが…。
「画面が大型、鮮明になったのだから旧来のカメラワークは、いい加減にやめたらどうか。例えば基本のカメラをホームベース上方に固定して、内野グラウンド全体を俯瞰(ふかん)的にとらえ、打球によっては外野にパンする…」
逢坂氏の不満、提言を理解できないテレビの野球中継担当者がいたとしたら、多分その人は、スポーツはやる方が楽しいということも分からない人かもしれない。
近日中にラケットのガットも張り替えて、次の機会に備えることにしよう。まずいプレーを重ねた時の言い訳をまず一つつぶすため…。