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編集だよりー 2012年5月12日編集だより

2012.05.12

小岩井忠道

 地元の茨城大学に進学した高校の同級生は何人もいる。卒業後、大メーカーに就職して日本の高度成長に大いに貢献した同級生も多い。なにせ国立大学の授業料が年12,000円、入学金もいくら払ったか覚えていないくらいの額だ。入試科目が文系、理系を問わず5教科7科目ないし6科目と負担は大きいが、国立大学に入るメリットは多分、今よりはるかに大きかった。

 茨城大学に入ってからも中心選手として活躍した運動部の先輩も何人かいる。現役時代、練習試合でよく胸を借りたものだ。しかし、試合はいつも母校の体育館だった。こちらから出かけて行くのが自然なのに、考えてみると妙だ。当時、茨城大学にまともな体育館がなかったからでは、と今になって思い至る。当時、学生に対する国の支援は手厚かったものの、教育・研究施設など国立大学全体に対する公的支援はそれほどでもない。加えて、その後の高度成長期にもあまり強化されなかったのではないだろうか。

 12日、茨城大学地球変動適応科学研究機関で行われた「地球変動の影響に対する適応政策・適応技術に関するフォーラム2012」に参加した。当サイトのインタビュー欄やオピニオン欄に登場願ったことがある三村信男教授(茨城大学学長特別補佐、地球変動適応科学研究機関長)から、声をかけていただいたからだ。

 「東日本大震災を機に科学者の社会的責任というものに関心が高まった。科学者の統一した声というのも求められたが、科学者になるような人は元来、人と違ったことを主張したいという欲求が強いはずだから、これはなかなか容易ではないだろう。個々の科学者の意識より、仕組みを変えることを目指すべきではないだろうか。科学アカデミー(日本学術会議)が、もっと大きな影響力を持つような社会の仕組みに。リンカーン大統領の肝いりでつくられた米科学アカデミーが、政府の要請に応じ多くの調査報告書をまとめ、政策決定に大きな影響力を持ちながら、独立した機関として存在していることを考えてほしい。日本は、研究者が各府省から一本釣りされて、審議会などの委員になっているのが現実だ。いかによい報告や提言をまとめても、結局、それぞれの府省に都合のよい結論でしかない、とみられてしまう。府省の審議要請に応じるのはよいとしても、せめて委員の人選くらいは科学者の側、日本学術会議が責任を持つ、といったあたりから仕組みを変えていくべきではないか」

 「行政担当者&市民と専門家対話」という最後のセッションでコメントを求められ、そんな発言をした。ただし、端から科学アカデミー、科学者に偉そうに注文を突きつけるのは何ともおこがましい。科学記者としてはなはだ不十分だったおのが取材活動について反省の弁を最初に述べるのが、礼儀というものだろう。と、幾つか並べた中で、次のような話もした。

 「研究施設をはじめとする国立大学の研究環境がひどい状態に陥ったことが問題にされた時期があった。戦後、日本社会はずっと官僚主導で進んできたので、役所を取材しないことには社会的に影響の大きな記事はなかなか書けない。ところが科学部というのは新聞、通信社の中で最も新興の部だ。科学部の記者が自由に取材できる役所は非常に少なく、旧文部省も記者クラブに常駐して省内を自由に歩き回れるのは各社とも社会部や政治部の記者たちばかり。自民党の文教族といわれる人たちの関心も専ら初等教育に注がれており、高等教育には熱心ではなかった。実験装置がろうかに並んでいるといった国立大学のひどい研究環境を招いたのも、そんな状態を問題にし得る科学記者が旧文部省内をほとんど取材できなかったことが一因といえる」

 編集者が通信社記者として取材で歩き回っていたころに比べると、マスメディアと役所の関係もだいぶ変わっているはずだ。インターネットが普及する前は、官庁が直接、不特定多数の人々に自らの政策、その他の情報を伝えることなどまずあり得なかった。いずれ公表されるのが分かり切っている報告書の類を1日前あるいは数日前に手に入れて「特ダネだ」と大々的に報じる。昔ながらのそんな競争より、真に中身のある情報をタイミングよく報じていくという方向にマスメディアの姿勢も向かざるをえないだろう。

 社会のありように大きな影響を与える。そんな中身のある情報の重要な発信源に、日本学術会議が1日も早くなってくれることを祈るばかりだ。

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