2日都内で開かれたシンポジウム「システム構築による重要課題の解決に向けて」が、講演者、パネリストの人選がよかったからだろう、実に面白かった。
社会が期待する重要課題の解決は、適切なシステム構築によって達成されることが多い。システム構築を支えるシステム科学技術を、日本は得意としていない、という反省にたった報告、議論が交わされた。システム科学技術を推進する上で必要とされたことの一つが昔から言われ続けてきた文理融合である。唯一の文系出身者だった櫻庭千尋・日本銀行調査統計局審議役(横浜国立大学経済学部卒)の指摘が面白い。日本銀行も理系の人材を求めていることを強調した上で、理系人材が持つ長所を、氏は次のように言っている。
「理系出身者はどんな優秀な人でも失敗の経験がある。実験をやれば必ず失敗があるからだ。法学部や経済学部を出た優秀な人間は失敗したという経験がない人が多い」
失敗の経験がない人間だけでは、日銀が関係する領域でもうまく仕事が転がらないということを強調したかった、と思われる。会場の参加者を含め圧倒的な多数派と思われる理系出身者に対するリップサービスも幾分かは、ということも考えないといけないだろう。しかし、この指摘は考えさせられるところが大きい。
冤罪の可能性が高い受刑者たちのために数多くの鑑定を行ってきた法医学者、押田茂實・日本大学名誉教授から聞いた言葉を思い出す。氏は検察官、裁判官といった司法界の人々の科学的精神の足りなさを指摘して、次のように言っている。「裁判というのは、出てきた証拠で白か黒かを決めている。しかし、自然科学や医学の世界では、白か黒かがはっきり分かるというのはほんの一部」
無論、科学的な捜査や証拠の重要性を否定したのではなく、いったん証拠として提出されるとその真偽の検討を二の次にして、白黒を付けてしまうことの危険性を批判したものだ(インタビュー「法医学の役割-安全で冤罪許さない社会目指し」第6回「困っている人のために」)
失敗の経験、つまり自分の誤りを否応もなく認めざるを得ない経験に乏しい。もし検察官や裁判官にそんな人たちが多いと考えると、押田氏の言われることがより理解できる気がする。
しかしである。福島第一原発事故が起きてみるとなおのこと、原子力発電がここまで日本で普及するまでに果たした理系出身者の役割にどうしても思いが巡る。失敗というものをリアルに感じることができる長所を理系出身者が文系出身者より持つとするならば、長所として自覚すべきなのを、日本社会、組織の中で逆に殺してしまっているようなところはないだろうか。原子力発電の世界において、理系出身者が、危険性に対する的確な判断と対応を、組織の中できちんと主張できなかったと思われる現実をどう見たらよいのか。
頭を抱えるほかない。