レビュー

編集だよりー 2012年2月18日編集だより

2012.02.18

小岩井忠道

 四季劇場秋でミュージカル「壁抜け男」を観る。日本にもファンが多いミシェル・ルグランの音楽、原作・マルセル・エイメ、台本・ディディエ・コーベレール、日本語版台本・演出が浅利慶太という作品だ。1997年にパリで初演されたという。

 出演者たちの表情、体の動きが豊かなことに感心した。皆、個性的でかつ嫌みがない。演じる方のレベルが上がると観客の質もまた同様に、というところだろうか。「観客の雰囲気がどこか似ている」。友人の言葉にうっかり「小奇麗にしている女性ばかりだしね」と妙な相づちを打ってしまった。「身奇麗な女性が」と言うつもりを。

 観劇後、近くでのどを潤す。友人は東京音楽文化協会(東京音協)に長年勤めていた元職員で、編集者の文化的関心を何とか人並み近くに引き上げてくれている恩人だ。この日のチケットだけでなく、7日に下北沢の本多劇場で観た「龍を撫でた男」(作・福田恆存、演出・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)のチケットも提供してくれた。オペラ、管弦楽をはじめとしてこの友人のおかげで劇場、ホールに足を運んだ回数は、どれほどになるだろうか。

 断片的にしか聞いていなかったので、この日はあらためて東京音協の果たしてきた役割を尋ねてみた。劇団四季のミュージカルは、今回が初めてではないのだが、「龍を撫でた男」というストレートプレーそれもオリガト・プラスティコという初めて聞く小集団の公演まで関係しているのが、意外だったからだ。

 東京音協ができたのは1963年という。日本経団連や日本商工会議所など産業界の支援、協力を得て設立されたことはこれまでも聞いていた。労音(勤労者音楽協会)に対抗して経営側がつくった、ということも。労音は音楽、演劇、映画などのチケットを勤労者である会員に安く提供していただけではない。自ら作品をプロデュースすることまでしていたというから驚く。例えば「見上げてごらん夜の星を」は、大阪労音が製作し、1960年に大阪フェスティバルホールで初演されたミュージカルだった、というように。

 東京音協がつくられたのは、「見上げてごらん夜の星を」の初演から3年後、坂本九が舞台と映画でそれぞれ主人公を演じ、劇中歌である同名の歌をレコードにして大ヒットさせた年でもある。文化・娯楽活動まで労働団体に牛耳られてはたまらん、と経営側が危機感を抱き、東京音協をつくった事情は容易に想像できる。

 日生劇場ができたのも、同じ1963年だ。日本生命の劇場建設構想と、新劇場を望んで五島昇・東急グループ総帥に働きかけていた文化人、浅利慶太、石原慎太郎両氏の思惑がかみ合って建設に至った、というのは何かで読んだことがある。ところがこちらにも東京音協が絡んでいたというから驚く。友人によると、東京音協の初代専務理事に就任した坪内嘉雄氏が浅利、石原両氏とともに日生劇場設立に大きな役割を果たしたというのだ。坪内氏はその後、日経連の専務理事やダイヤモンド社の会長なども務めた人だが、坪内氏と日生劇場との縁で、浅利氏が率いる劇団四季のチケット販売の一部を東京音協がいまだに担っているという。なるほど、それでチケットがなかなか手に入らないといわれる四季の人気ミュージカルを何度か見る恩恵に浴したのだ、と初めて知る。

 編集者にとっては実に難解な劇だった「龍を撫でた男」の初演は1952年のこと。杉村春子や中村伸郎、宮口精二など文学座の有名俳優がそろって出演したという。演出も担当した原作者の福田恆存は、この時文学座に所属していた。その後、同じ文学座所属だった芥川比呂志、仲谷昇、岸田今日子らと現代演劇協会を設立し「劇団雲」を旗揚げする。この年がまた、東京音協が設立され、日生劇場がつくられた年と同じ1963年なのだ。

 「劇団雲」から芥川らが去った後、「劇団欅」を設立するなどの変遷があったのだが、福田恆存と東京音協との関係は、福田の死後18年たっても続いているというのである。今回のように60年前の劇を再演するという形で。日本の演劇活動に音協や労音が果たしてきた役割、さらには文化活動にこのような形の観客動員システムが貢献してきた歴史について、しばし考えさせられた。

 「壁抜け男」の会場でもらったパンフ「四季の会入会案内」を見たら、四季がこれまで上演してきた主要な演目が並んでいる。四季が初めのころよく上演したフランスの作家たちの演目も入っていた。学生時代、何度か日生劇場に足を運んだものの、何をいいたいのかさっぱり分からない苦い思い出がよみがえってきた。元夫人である影万里江や藤野節子(いずれも故人)を主演女優として使い続ける。そんな演出家、浅利慶太氏の度量の大きさというか統率力のすごさだけにはひたすら感服していたこととともに…。

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