日本人のマナスル初登頂(1956年)は、小学生の時、授業の一環として記録映画で見た記憶がある。この時も感じたかどうか定かでないが、登山についてはずっと気にかかることがあった。○○隊が○○山の登頂に成功などと言うが、荷物運びなどに協力した大勢の現地人に対する評価は正当なのだろうか。なにがしかの賃金が払われるだけだとしたら、何か変ではないのか、と。
山の遭難ニュースが小さな漁船の遭難などに比べ、格段に大きく取り上げられるのはおかしい—。通信社に入ってから、全国紙の高名な記者が書いているのを読み、なるほどと思ったこともある。とにかく登山については全く関心がなかった。
その山歩きを5、6年前から始めたから、編集者の好き嫌い尺度などどうにでもなるということだろう。誘っていただいたのは通信社時代の先輩。公私ともにお世話になり迷惑も掛け通しの方だから、断る選択はなかったが…。
実はこの先輩もまた、登山にはずっと関心がなかったらしい。ほかのメンバーも似たようなもので、先輩の高校の同級生で“隊長”に奉られた方だけが、内外の有名な山に何度も登り、登山歴60年にも及ぼうというプロだ。
初心者相手だから相応に付き合っておけば、と恐らく“隊長”もずっと思っていたに違いない。ところが皆、意外に体力がある、と思い始めたのだろうか。今年の相手は今までとはだいぶ違っていた。火山活動が収まり、入山規制がだいぶ緩やかになった浅間山である。10月29日朝7時半、浅間山頂の南東に位置する天狗温泉浅間山荘を出発。最初は渓流に沿った林の中の道で、風景も変化したが、そのうち小さな火山岩がごろごろというだけの急斜面になる。スギゴケくらいしか生えていない山腹を斜めに道が長々と伸び、そこをひたすら登るだけとなった。快晴だから眺めはすこぶるよい。数年前に登った外側の外輪山、トオミの頭から黒斑(くろふ)山にかけての急な斜面が左手に迫る。しばらく上ると外輪山の尾根が切れ、向こう側に北軽井沢の平地とかなたの山並みが望めて、これも相当な眺めだ。だが、なかなか頂上にはたどり着かない。そのうち息が上がり、時々深呼吸する羽目に陥る。
ようやく前掛山(2,524メートル)に到着して、昼食を食べるとすぐ帰途だ。浅間山荘に戻った時は、日もかげった午後4時半すぎ。近くの菱野温泉で一風呂浴びてから軽井沢まで引き返す。レストランで夕食となったが、ビールとワインを1杯飲んだ後は、水にしか手が伸びなかった。知らず知らず結構な量の汗をかき、体も水分がほしかった、ということだろう。
前夜に続き、先輩、金子敦郎氏の別荘に厄介になる。氏にはこれまでサイエンスポータルに3度登場願った(2010年4月オピニオン「「核抑止の虚構-その終わりのときが始まった」現実を見ない現実論、現実を見つめる理想論」、2009年8月オピニオン「『核廃絶』と唯一被爆国」、2007年8月インタビュー「世界を不幸にする原爆カード−ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」)。米国を見る確かな目は相変わらずで、飲み直しながら伺った話に仰天する。
米国は経済力だけでなく、民主主義自体が崩壊の危機に瀕している、というのだ。米国は何のかんの言っても2大政党体制がちゃんと機能しているから、などと思い込んでいるのは浅はかということらしい。冷戦が資本主義側の勝利に終わった結果、社会主義的なものを全否定する風潮が米国社会をおかしくした、と聞いて考え込む。冷戦終了で「資本主義が社会主義より優れていることが証明された」と傲慢(ごうまん)になったのが、今の米国の惨状を招いた大きな原因の一つ、というのだ。
ベルリンの壁が崩壊(1989年)するだいぶ前、金子氏と共通の友人で一緒によくバスケットボールで汗を流したこともあるブルガリア通信東京支局長(当時、現ブルガリア国民議会議員)の話を思い出す。「資本主義国家は、社会主義国家の諸々の政策、制度も取り入れることで、うまくやってきた」
10月31日には、早朝のNHKラジオ番組「ラジオあさいちばん」の「ビジネス展望」で、浜矩子・同志社大学大学院教授が「これまでドルが米国の実力以上に高かっただけ。(実際の力で比較したら)1ドル50円もあり得る」という前からの指摘を繰り返していた。
日本もよく考えた方がよい、ということだろう。