毎年、この時期になると思い出す人がいる。第2代の原子力安全委員長、御園生圭輔氏だ。結核対策などに力を注いだ後、放射線医学の分野で長年、指導的な立場にあった。最初の印象がなんとも強烈で忘れられない。放射線医学総合研究所で新しい研究施設の完成式典があるというので出かけた時の話だ。来賓として祝辞をされたのだが、てっきり政治家ではないかと早とちりする。風貌からして、研究者らしくなかった。
祝辞の内容がまた変わっている。「施設がよくなって研究成果がさっぱり出てこなくなった例は、○○国の△△研究所など世界にはいくつもある…」。こんなことではしゃいでいちゃ駄目。研究にさらに励め、と厳しく注文したのだ。後で前放射線医学総合研究所長と聞いて、まあそのくらい言ってもムッと来る人はいないか、と納得したが…。
原子力安全委員長の部屋というのは、当時、科学技術庁の一角にあり、これが広い。原子力安全委員会が終わったころを見計らって部屋へ行くと、原子炉や放射線安全の専門家たちが大勢、御園生委員長を囲んでワイワイやっている。次郎長親分を囲んで清水一家の子分たちが勢ぞろい、という雰囲気である。こちらは客分のような存在か、と図々しくも思ったものだ。委員長の脇に座り、聞いていた皆の話は記事には全くならない話ばかりだったが…。
原子力安全委員長を辞められた後、がんの治療で入院していると聞いて虎ノ門病院に見舞ったことがある。さらにそのだいぶ後だった、と思う。原爆の話を一度伺っておこうと思い立ち、自宅を訪ねた。御園生氏は原爆投下直後の広島に軍医として調査に入っているのだ。どういう記事にしたものか思いあぐねて、結局、できず、伺った内容もほとんど覚えていないのが悔やまれる。ただ、原爆は二度使用すべきではない、という意味のことを話されたときに、うっすらと涙をにじませておられたのを覚えている。調査自体が秘密だったらしく、結婚間もない夫人は氏が広島に行っている間、東京の自宅に1人残され、しかも、相当長い間連絡もなかった、と夫人に聞いて驚いたことも…。
御園生氏の3代後の原子力安全委員長だった佐藤一男氏は、御園生委員長の部屋に集まっていた常連の1人だったはずだ。安全委員長在任中の1999年9月にJCOウラン加工工場臨界事故に遭う。事故は茨城県東海村で起き、佐藤委員長は対策の陣頭指揮に当たった、といわれる。原子力安全規制体制は原子力安全委員会が二重チェックの役割を果たす点では今と変わりない。しかし、当時は科学技術庁が独立した役所として存在していた。ウラン加工施設の一次規制の責任を負っているほか、原子力安全委員会の事務局も科学技術庁原子力安全局が担っていた。
だから原子力安全委員長は、科学技術庁原子力安全局のマンパワーをフルに使ってJCO事故に立ち向かうことができたのだ、という指摘をする人もいる。確かに原子力発電所の事故である今回は、一次規制の権限を持つのは経済産業省の原子力安全・保安院だ。今や内閣府に移っている原子力安全委員会が、JCO事故のように陣頭指揮に当たるのは難しかった面はあるのかもしれない。
とはいうもののである。原子力安全委員長がもっと全面に出ることはできなかったものだろうか。佐藤元原子力安全委員長のご子息である建築家の昌樹氏(編集者の高校の後輩)にJOC当時のことを聞いたら「父が全力で立ち向かっていたのは分かっていた」とのことだった。