レビュー

編集だよりー 2011年8月5日編集だより

2011.08.05

小岩井忠道

 こういう記事はそうはない。4日の毎日新聞朝刊社会面の連載記事「焦土を生きて—戦後復興物語」4回目「心照らしたリンゴの歌」に出てくる二人が、ともに編集者の旧知の方だった。

 宮城県山元町は今度の津波で600人以上が亡くなったという。震災10日後に開局した災害臨時FM「リンゴラジオ」の名付け親として紹介されていた高橋厚さんとは、東北放送報道部長をされておられた時に何度も顔を合わせた仲だ。東北放送を辞められた後も、地元で復興の手助けをしているのか、と高橋さんの顔が浮かぶ。

 もう1人より多くの行数を割いて紹介されていたのが、川又昂さんだ。川又さんを知らない映画ファンはよほど若い人だろう。「青春残酷物語」「ゼロの焦点」「砂の器」「黒い雨」…。川又さんが撮影監督を務めた名画は数多い。撮影助手時代から目をかけられた小津安二郎をはじめ大島渚、野村芳太郎、深作欣二、今村昌平など一緒に仕事をした名だたる監督も数多い。「砂の器」(野村芳太郎監督、1974年)など松本清張の原作より映画の方がよいといわれているのは、多くの人が知っている。原作ではわずかな行数で片付けられている個所を、膨らませて中心に据えた橋本忍と山田洋次の脚本を褒める人が多い。しかし編集者は、脚本だけではなく川又撮影監督の腕によるところが非常に大きいと思っている。

 川又さんによると、野村芳太郎監督はロケ地の選定を川又さんに任せていたそうだ。砂の器では、薄幸の主人公父子が郷里を追われ放浪の旅を続ける有名なシーンがある。前述の原作には全くない個所だ。最初の青森県竜飛岬から、茨城県の奥久慈、長野県のあんずの里…。すべて川又さんが探してきた選りすぐりの場所だと分かる。この作品のよいところをそっくりいただいた感のテレビドラマが何度も作られたが、川又さんに尋ねたらやはり映画を超えたものはない、ということだった。

 同じ野村監督と組んだ「ゼロの焦点」(1961年)も、リメイク作品(犬童一心監督、2009年)よりよほどよいと思う。この撮影でも面白い話を川又さんから聞いたことがある。よく知られているように原作(松本清張)も映画も重要な場所は、能登金剛・ヤセの断崖だ。探し歩いたけれど、原作にあるような情景の撮れる地点がついに見つからなかった場所があったという。劇的効果を挙げるためか、原作者が地形をだいぶ“つくり変え”てしまったらしい。

 編集者の仕事にも当てはまるかも、と折に触れて思い出すことがある。撮影適地を探すため東京湾岸をだいぶ歩き回ったというから、作品は「東京湾」(野村芳太郎監督、1962年)だろうか。近代的なビルと昔風の家屋が隣接しているような場所を探した、という。光だけでなく、撮影対象そのもののコントラストを気にするということか、と大いに納得した覚えがある。

 川又さんは、高校の大先輩で年齢の違いは20近い。終戦の前年、編集者が生まれた前年でもある1944年卒(当時は旧制中学)の川又さんが在校中は、映画を見るのも命がけだったという。この非常時になんたる軟弱精神か、ということだろう。映画館の入口を付近の店から教師が監視していたというから半端ではない。見つかると後で鉄拳制裁を加えられたという。嫌な時代だ。無論、それでも映画少年だった川又さんは映画館に通った、と毎日新聞の記事にも出ていた。

 映画界入りは古い商家だった川又家にとって大変な出来事で、最初に賛成に回ってくれたのが母上だったそうだ。希望はかなったものの間もなく終戦。翌1946年9月に松竹大船撮影所に戻り、戦後に製作された最初の映画「そよかぜ」の音入れ作業中に聞いたのが主題歌「リンゴの唄」だった。「何て開放的なんだ」と感動したことが、記事の中心をなしている。

 帽子を粋にかぶった川又さんの写真は、松竹大船撮影所跡で撮られたものだ。同撮影所は閉鎖後ほんの一時期だったが、跡地の一部に「鎌倉シネマワールド」というテーマパークが作られた。「まず監督がセットの中にある盆栽に悠々とはさみを入れたりしてね。撮影が始まるのは、その後からだった」。再現されていた小津監督のセットの前で、川又さんが懐かしそうに話されていたのを思い出す。

 世界に誇る日本映画の伝統を引き継ぐ人、集団もほとんどいなくなってしまった。記事にそんな一言が入っていたらなあ、とふと思った。

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