休みなく歩くわけではないのでシャクトリムシのようだ、とも言えるだろうか。終点の下諏訪宿を目指し、月に1回週末に少しずつ歩く。通信社時代の仲間との甲州街道歩きは、この日、山梨県大月市の下鳥沢宿から大月宿というコースだった。見所は木造の「猿橋」である。こんな所になぜこんな川の流れができたのか。考え込んでしまうような景観を見下ろす場所に架かっている。両岸ともはるか下の川面まで垂直のがけだ。日本3大奇橋の一つという。ちなみに後の二つは岩国市の錦帯橋と徳島県三好市のかずら橋だそうだ。
3つのうち知っていたのは錦帯橋だけだった。スカイツリーのデザイン監修者としてインタビュー欄にご登場願った澄川喜一氏(元東京芸術大学学長、岩国工業高校卒業生)に、その魅力をとくとうかがったことがある(2011年2月18日「ものづくり国のシンボル- 東京スカイツリーの魅力とは」第2回「五重塔の美と知恵再現」参照)。
猿橋というのも確かに変わっている。見慣れた橋脚というのがない。橋を支えているのは、両岸のがけから張り出した四層のはね木だけだ。3年前に同じ仲間と歩いた中山道の途中、木曽川のがけに造られた板張りの道「桟」を思い出す。今はさすがに姿形もないが、がけの岩の間に丸太を押し込み、板を張って藤づるなどでゆわえただけという通路だったそうだ。中山道の一部にそんな危なっかしい道があったというのに驚いたものだが、桟も猿橋も力学的にはちゃんと理にかなっているということだろう。
ちょうど昼時だったので、橋のすぐそばにある大黒屋という茶店で名物の忠治そばを注文する。どうせ到着地で飲むのに、先輩が地酒を注文するのを見て早々と追随した。忠治そばのいわれは、かつて旅館だったころ国定忠治が滞在したことがあったからという。せいろそばについている馬肉の立田揚げが特徴で、これがいわし団子のような味でなかなかうまい。
店の前に「日立製作所80周年記念」と銘打った大きな表示が飾ってあった。日立製作所史からの抜粋文が載っている。後に日立製作所を創設する小平浪平が、大学時代の同級生で当時、逓信技師だった渋沢元治と中央線で乗り合わせ、大黒屋で一泊したという話だ。渋沢元治は、甲府の水力発電所の視察に行く途中だったそうだが、誘った方の小平浪平の用事が何だったかは書いてない。ともかく大黒屋で久しぶりに遭った渋沢に小平は「電気事業を興そうという抱負を語った」とある。渋沢元治が渋沢栄一のおいで、後に名古屋帝国大学の初代総長になった人物というのは帰京後に知った。
しかし昔の旅というのはおおらかなものだった、とうらやむ。出張途中の同級生を途中下車させ、同宿して語り明かすなどということはまず今の給与所得者にはなかなかできないことだ。寿命は当時より相当延びたといっても、生活の密度・変化とでもいうべきものを生存年数に掛けて比較したらどうだろう。昔の人よりかえって平板な一生かも、なんてことを考えてしまった。
編集者が幼少時を過ごしたのは、小平浪平が興した日立製作所の城下町だ。家の近くの太平洋を眺める高台に小平会館という当時としてはみるからに立派な施設があった。ウィキペディアで調べたら1961年に初来日とあるから中学3年か高校1年の時だ。有名な米国人ドラマー、アート・ブレイキーの演奏会があるから聴きに行こう、と同級生に誘われた。チケットなどない。会館の側面に2階ロビー前の広いベランダに通じる階段があった。人が入れないよう階段の上り口をふさいでいる障害物を乗り越え、ベランダから館内に潜り込むという。そんなことまでして観なくとも、と実は思ったが、弱虫と思われるのは嫌だ。こういう誘いは断れない。最上階に空席はいくらでもあったものの、後ろめたいので通路の階段に腰を下ろして聴いたが…。
帰宅後、その話を家族にしたら、帰省中だった大学生の叔父にしかられる。「そういうよくないことを自慢げに話す精神は気にくわない」
あの会館もだいぶ前に取り壊されたと聞いた。立て替えられたという話は聞かない。多分、あの豪華な施設に見合う十分な利用法がなかったせいではないだろうか。電源三法のような公金ではなく、超優良企業の建てた施設だから、誰からも文句は言われなかっただろうが。